«« ”二十二 会戦の前(2)” | メインページ | ”二十三 再び背水(2) ”»»


二十三 再び背水(1)

(カテゴリ:国士無双の章

報告は、漢軍がすでに予想以上に東進し終えたことを、伝えていた。

さすがに、韓信であった。
彼の用兵の速さは驚くべきであったが、しかし今さら狼狽(うろた)えるには、値しない。このぐらいのことで韓信を恐れるようでは、初めから彼と戦うべきではない。
「我らは、会戦を怖れはしない。しかし―」
龍且は、もう一度斥候(ものみ)の兵卒に、問い質した。
「漢軍は、濰水(いすい)をすでに渡り終えたと言うのは、確かなことか?」
斥候の兵卒は、答えた。
「複数の者が、目視で確認しております。河の対岸にある漢軍を、確かに捉えました。」
龍且は、不思議に思った。
「おかしい。どうして、そんなに早く渡れたのか、、、?」
斉国を東西に分かつ濰水の流れは、数多の大河が走る中国大陸の尺度から言えば、それほど大きな川ではない。
しかし、斉軍はすでに、川筋から渡船のたぐいを、一掃していた。漢軍が、対岸に渡ることを妨害する意図であった。
万単位の軍を渡河させるためには、常識ならば相当の時間が必要である。桴(いかだ)を組んで、順番に分隊を対岸に送らなければならない。必然的に、兵は少しずつしか渡ることができず、兵は長い時間分散してしまう。ゆえに、兵法は、敵を前にして渡河することを、避けるべき戦術であると教える。
龍且は、思った。
「かつて韓信は、特別にしつらえた罌缶(おうふ)を組んで兵卒を渡し、西魏王を奇襲して勝利したことがあった、、、彼のことだ。何か機略を用いたのかも、しれない。」
とにかく、すでに渡られたのならば、会戦の時はすぐにも迫っている。
野戦は、もとより楚軍の望むところであった。
龍且は、直ちに総軍に対して、戦闘準備に入るべきことを、下命した。
「何ならば、これより押し出して、韓信を河辺まで追い詰めてくれようか―!」
龍且は、韓信ござんなれと、戦意を隆々としごき上げた。
一日が、過ぎた。
龍且は、いまだに進撃の命令を、出せずにいた。
敵の動きが、昨日以降ぱたりと止まったままであった。
龍且は、朝になって、斥候からの報告を、じりじりと待った。
韓信は、布陣しているのか。
それとも、行軍の最中であるか。
敵の動きさえ知れれば、楚軍には怒涛の強襲がある。どのような構えを取ろうが、致命の一撃を食らわせてくれる、自信があった。
「報告の兵は、まだか!」
龍且は、冬の朝の、鈍い光の中で、怒鳴り付けた。
戦を前にして緊張する将兵にとって、極寒の空気はむしろ心地よい刺激であった。楚軍の士気は、将兵ともに、今や最高潮に達しようとしていた。この兵は、戦いたがっている。
ようやく、斥候からの報告が、大将のもとに届いた。
しかし、その報告は、またも龍且を戸惑わせた。
龍且は、昨日と同じく、問い質した。
「すでに漢軍は、川から去っただと、、、?昨日渡って、今日去ったとは、いったいどういうことだ!お前たちは、本当に見張っていたのか、混帳(どあほう)!」
龍且は、斥候の兵卒たちを、罵った。
兵卒たちは、大将に大声で怒鳴りつけられて、肩をすくめた。
しかし、さすがに彼らもまた、楚兵の一員であった。
萎縮して嘘を付くよりも、見たままのことを繰り返して告げることを、選んだ。
彼らの一人が、大将に答えた。
「朝のうちに、漢軍は旗を巻いて、対岸に戻ってしまいました。この目で、見たことです。大将が疑われるならば、よろしくこの私を斬られませい。」
龍且は、兵卒の毅然とした言葉に、ついに二の句を継げなかった。
彼は、代わりに独語した。
「行って、戻って来るなどを、どうして、、、?」
龍且は、敵軍の不審な動きをどう解釈するべきなのか、思案した。
どうしてここまで一挙に進みながら、撤退したのか。
いやむしろ、どうしてそんなに易々と、漢軍は川を出入りできるのか―
龍且は、目を大きく開けた。
「― 川が、枯れているのか、、、!」
今、季節は冬。
河川の水量が、最も乏しくなる、季節であった。
龍且は、声量を大きくした。
「川の流れが、常よりもさらに乏しくなっていれば、川は障害の役目を持たなくなる。韓信は、濰水の流れの乏しきを見て、兵馬の足で渡れるかどうか、試したのだ。そして、渡れることを確かめた後で、再び後ろに退いた― それが、真相か。」
龍且は、陣営の客として参加している、斉の将軍の一人に聞いた。
「あなた方は、斉の地形を、よくご存知だ。あの川は、徒歩で渡れるので、ありましょうか?」
しかし、斉の将軍は、首を傾げた。
「そんなはずは、ないのですが、、、」
しかし、龍且は、彼に言った。
「だが現に、韓信は兵馬を往来させている。これを、どう解釈すべきか?」
斉の将軍は、首を傾げるばかりであった。
「たとえ冬といえども、渡れるはずがないのですが、、、計略でしょうか?」
龍且は、聞いた。
「計略。ならば、もし敵の計略があるとすれば、いかなる可能性を考えられるか?」
斉将は、もごもごと口を動かした。
(― 我が目で見た方が、話が早いわ。)
龍且は、もはやそれ以上聞くことを止めにした。たとえ現地を守る人物であっても、他国から来た者よりも情勢がよく見えているとは、限らない。観察する目を持たなければ、慣れた地の利を得ることすら、できない。
龍且は、今はもう心を決めて、総軍に下命した。
「いま漢軍は、川の向こうに退いた。川筋を境界として、我が軍を待ち受けるつもりであろう。これから先は、進むも退くも、我が手中にあり。いざ、漢軍との間合いを詰めるべし。いかなる事態となるも、慌てるな。我ら楚が進むところに阻む敵などないことを、肝に銘じるのだ、諸君!」
楚の全軍が、大将の命に応じて、大きく雄叫びを上げた。
無敵の集団の、いざ進撃する時であった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章