«« ”二十二 会戦の前(1)” | メインページ | ”二十三 再び背水(1) ”»»


二十二 会戦の前(2)

(カテゴリ:国士無双の章

同じ頃、項軍もまた、戦場を求めて進んでいた。

「韓信は、何を狙うか―」
大将の龍且は、馬上にあった。
彼の周囲を、江東の騎兵たちが、伴をしていた。
いずれも、不敵そのものの面構えであった。
この者どもに戦場を駆けさせることが、項軍にとって最上の武器となる。
「ゆえに、指揮する者としては、最上の時にこれらを用いなければ、ならない。」
龍且は、そう心得た。
もし敵軍が塁壁などに立てこもってしまえば、彼らの威力は、十分に発揮されないであろう。
「だが、敵は我らとの野戦を、きっと避けられないであろう。」
龍且は、目算していた。
敵軍は、長躯してやって来た、遠征軍である。
敵国の只中で籠城することなど、あの賢明な韓信が採るわけがない。
龍且は、改めて周囲を見回した。
この精鋭たちの強さは、大陸の中で突出している。
「いざ野戦となれば、この者たちは必ず、やってくれるだろう。」
多少の罠ならば、この精鋭たちは突破してしまう。
今、楚軍はのるかそるかの地点に、立たされていた。慎重に構えていては、すでに斉まで奪ってしまった漢軍に、圧し潰されるばかりであった。
彼らを預かる将が、この者どもの使い方をもし間違うとするならば、それは―
「この者どもを、使わないことだ。敵の軍略を恐れて、敵と戦わせないことだ。」
彼は、決して無謀を好む将では、ない。
もし龍且が、普通並の兵を率いていたならば、彼はきっと、韓信と野戦を選ぼうとしないであろう。
だが彼は、自軍が何故にこれまで強かったのかの利点を、知っていた。
龍且はゆえに、その利点を敵に叩きつけることが、勝利への道であると考えていた。
「項軍の生命は、まさに拙速にあり―」
龍且は、そのように結論付けていた。
呂馬童は、騎兵たちを率いて、龍且の隣にあった。
彼は、行軍中、多くを語ることもなかった。
いよいよ、韓信と戦わなければならない。
彼の心中は、いまだ複雑であった。
龍且は、彼の表情を見て、声を掛けた。
「― 致し方のない、ことだ。」
呂馬童は、うめくようにつぶやいた。
「我が軍が、彼の郷里の淮陰を犯したと、聞きました。彼が怒ったのも、当然です。我が軍は、取り返しのつかないことを、してしまった―」
もはや、呂馬童が項王を諌めた、屠る勿(なか)れという言葉も、空しくなった。
龍且は、言った。
「もはや、致し方のないことだ。あれもこれも、項王の個性から発した、結果であった。だが我らは、項王の股肱だ。楚軍として、敵と戦わなければならないのだ。」
項王と漢王の、どちらが大陸の勝者として残るかの分かれ目は、きっとこれから始まる戦の結果で、はっきりと分かることであろう。
今、漢軍は天下の大半を押さえ、楚は一国だけとなって孤立している。
龍且は、言った。
「しかし― 我らにはまだ、漢を上回っていることが、ある。我が軍は、戦場で漢軍に、敗れていない!」
項王と、彼の育てた兵卒の強さだけは、いまだ大陸の誰一人として、これを打ち破った者などいない。
「覇王の、覇王たるゆえんはそこだ。楚の覇権は、お前たち兵の強さが、創り出したのだ。思い出せ。かつて、無敵と怖れられた秦の章邯を、お前たちは破り去った。思い起こせ。彭城で、お前たちは五十六万の漢軍を、ついに無に帰した。あれらの突撃は、天下に現れた奇蹟であった。そして、奇蹟はいまだ、死んでいない、、、!」
龍且は、今や周囲の精鋭たちに向けて、語りかけていた。
すでに、彼らは覚悟を決めていた。
項王と共に進む我らは、項王のために、命果てるまで戦い続けるであろう。
それが、彼らの天命であった。
誤っているならば、天が亡ぼせばよい。もはや我らが気に掛けるところに、非ず。
誰かが、口ずさみ始めた。

大風起コリテ、雲、飛ビ揚ガル
威ハ海内に加ワリテ、故郷ニ帰ル

以前、虞美人が彼らの前で披露した。項王作の歌であった。
雄大な曲想は、彼らの心までを、飛揚させた。

安クニカ、猛士ヲ得テ、
四方ヲ守ラシメンヤ?

彼らは、口の端々に乗せて、歌った。
猛士たちの、賛歌であった。
呂馬童もまた、歌った。
歌うと共に、涙がにじみ出てきた。
項王の作る詩は、常に見事であった。
(項王の、魂が聞こえるようだ、、、)
呂馬童たちは、歌いながら、やがて来る決戦に向けて、馬の足を一歩、一歩と前に、前にと進めていった。
やがて、楚軍は、高密にまで至った。
ここに籠る斉王は、待ちに待った楚軍の到来に、大喜びして迎えた。
しかし、彼が与えた援兵は、しみったれたものであった。
斉王は、戦場にすら出ず、高密に残ることとなった。
「構わん。斉軍など、どうせいようがいまいが、何の違いもない。」
龍且は、些事にすぎないと気に掛けず、斉王を置いていった。
残るは、韓信との会戦の場所を、決めるだけであった。
斥候(ものみ)の兵が、漢軍の姿を捉えて、戻って来た。
「なに、、?」
龍且は、しかし告げられた報告を聞いて、戸惑いを隠せなかった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章