同じ頃、項軍もまた、戦場を求めて進んでいた。
「韓信は、何を狙うか―」
大将の龍且は、馬上にあった。
彼の周囲を、江東の騎兵たちが、伴をしていた。
いずれも、不敵そのものの面構えであった。
この者どもに戦場を駆けさせることが、項軍にとって最上の武器となる。
「ゆえに、指揮する者としては、最上の時にこれらを用いなければ、ならない。」
龍且は、そう心得た。
もし敵軍が塁壁などに立てこもってしまえば、彼らの威力は、十分に発揮されないであろう。
「だが、敵は我らとの野戦を、きっと避けられないであろう。」
龍且は、目算していた。
敵軍は、長躯してやって来た、遠征軍である。
敵国の只中で籠城することなど、あの賢明な韓信が採るわけがない。
龍且は、改めて周囲を見回した。
この精鋭たちの強さは、大陸の中で突出している。
「いざ野戦となれば、この者たちは必ず、やってくれるだろう。」
多少の罠ならば、この精鋭たちは突破してしまう。
今、楚軍はのるかそるかの地点に、立たされていた。慎重に構えていては、すでに斉まで奪ってしまった漢軍に、圧し潰されるばかりであった。
彼らを預かる将が、この者どもの使い方をもし間違うとするならば、それは―
「この者どもを、使わないことだ。敵の軍略を恐れて、敵と戦わせないことだ。」
彼は、決して無謀を好む将では、ない。
もし龍且が、普通並の兵を率いていたならば、彼はきっと、韓信と野戦を選ぼうとしないであろう。
だが彼は、自軍が何故にこれまで強かったのかの利点を、知っていた。
龍且はゆえに、その利点を敵に叩きつけることが、勝利への道であると考えていた。
「項軍の生命は、まさに拙速にあり―」
龍且は、そのように結論付けていた。
呂馬童は、騎兵たちを率いて、龍且の隣にあった。
彼は、行軍中、多くを語ることもなかった。
いよいよ、韓信と戦わなければならない。
彼の心中は、いまだ複雑であった。
龍且は、彼の表情を見て、声を掛けた。
「― 致し方のない、ことだ。」
呂馬童は、うめくようにつぶやいた。
「我が軍が、彼の郷里の淮陰を犯したと、聞きました。彼が怒ったのも、当然です。我が軍は、取り返しのつかないことを、してしまった―」
もはや、呂馬童が項王を諌めた、屠る勿(なか)れという言葉も、空しくなった。
龍且は、言った。
「もはや、致し方のないことだ。あれもこれも、項王の個性から発した、結果であった。だが我らは、項王の股肱だ。楚軍として、敵と戦わなければならないのだ。」
項王と漢王の、どちらが大陸の勝者として残るかの分かれ目は、きっとこれから始まる戦の結果で、はっきりと分かることであろう。
今、漢軍は天下の大半を押さえ、楚は一国だけとなって孤立している。
龍且は、言った。
「しかし― 我らにはまだ、漢を上回っていることが、ある。我が軍は、戦場で漢軍に、敗れていない!」
項王と、彼の育てた兵卒の強さだけは、いまだ大陸の誰一人として、これを打ち破った者などいない。
「覇王の、覇王たるゆえんはそこだ。楚の覇権は、お前たち兵の強さが、創り出したのだ。思い出せ。かつて、無敵と怖れられた秦の章邯を、お前たちは破り去った。思い起こせ。彭城で、お前たちは五十六万の漢軍を、ついに無に帰した。あれらの突撃は、天下に現れた奇蹟であった。そして、奇蹟はいまだ、死んでいない、、、!」
龍且は、今や周囲の精鋭たちに向けて、語りかけていた。
すでに、彼らは覚悟を決めていた。
項王と共に進む我らは、項王のために、命果てるまで戦い続けるであろう。
それが、彼らの天命であった。
誤っているならば、天が亡ぼせばよい。もはや我らが気に掛けるところに、非ず。
誰かが、口ずさみ始めた。
大風起コリテ、雲、飛ビ揚ガル
威ハ海内に加ワリテ、故郷ニ帰ル
以前、虞美人が彼らの前で披露した。項王作の歌であった。
雄大な曲想は、彼らの心までを、飛揚させた。
安クニカ、猛士ヲ得テ、
四方ヲ守ラシメンヤ?
彼らは、口の端々に乗せて、歌った。
猛士たちの、賛歌であった。
呂馬童もまた、歌った。
歌うと共に、涙がにじみ出てきた。
項王の作る詩は、常に見事であった。
(項王の、魂が聞こえるようだ、、、)
呂馬童たちは、歌いながら、やがて来る決戦に向けて、馬の足を一歩、一歩と前に、前にと進めていった。
やがて、楚軍は、高密にまで至った。
ここに籠る斉王は、待ちに待った楚軍の到来に、大喜びして迎えた。
しかし、彼が与えた援兵は、しみったれたものであった。
斉王は、戦場にすら出ず、高密に残ることとなった。
「構わん。斉軍など、どうせいようがいまいが、何の違いもない。」
龍且は、些事にすぎないと気に掛けず、斉王を置いていった。
残るは、韓信との会戦の場所を、決めるだけであった。
斥候(ものみ)の兵が、漢軍の姿を捉えて、戻って来た。
「なに、、?」
龍且は、しかし告げられた報告を聞いて、戸惑いを隠せなかった。
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