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二十二 会戦の前(1)

(カテゴリ:国士無双の章

十一月、斉の平原は、身を引き締めるような寒さであった。

斉都の城外に、遠征して来た漢軍が、集結させられた。
彼らの大半は、趙でにわかに召集された、まだ戦歴も浅い新兵たちであった。
大将の命ずるままに、平原津を越えて、いま見知らぬ国の奥深くに進んでいる。
彼らの運命は、彼らを率いる者に、何もかもが託されている。
将と共に進み、将の号令どおりに戦い、もし将が采配を過てば、空しく亡ぶ。
これまでの戦乱の時代で、そうやって何十万という兵卒たちが、郷里から遠く離れた土地であわれ白骨と化していった。彼らには、何の責務も罪科も、ない。一切が、国家の都合であった。運命は、国家の権を担う将軍たちの指揮の巧拙に、任されていた。
だから、将という役目の責務は、はなはだ重大である。
重大な、はずなのだが―
やがて、総軍の前に築かれた壇の上に、漢軍の将軍たちが昇った。
檀下の兵卒たちは、寒さに手をかじかませながら、将軍たちの表情を眺めていた。
この人たちは、適確な采配を、してくれるのであろうか?
この人たちは、自分たちに功績を、与えてくれるのであろうか?
― などと、考えている、余裕すらない。もう、遠くの土地に来てしまった。大陸はあまりに広く、その住民にとって他郷は外国も同然であった。逃げても生き延びる術すらなく、兵卒の一員として、軍に付いて行くより、選択肢などない。まことに、兵法の教える通りであった。
壇上の中央に、大将が昇った。
兵卒たちは、一斉に注目した。
大将の韓信は、言った。
「これより東に進み、敵に当る。敵は、楚軍― かつてない、強敵である。」
後ろにいた曹参は、韓信の言葉について、疑問を持った。
彼は、思った。
(兵卒を、恐怖させてどうするのか?)
実は有利な戦況において、自軍をひきしめるために敵の強さを強調するのは、よい訓示といえるだろう。
しかし、これからの戦は、有利どころではない。
曹参は、思った。
(敵は、最強の楚軍。いっぽう、我が軍は新兵ばかりだ。こちらが常の倍の力で勇戦しても、まだ相手に敵うかどうか分からない。こんな時には、必ず勝つから、自信を持って戦って来いと尻を叩くぐらいが、丁度よいぐらいではないか、、、)
韓信は、続けて言った。
「強敵と当るゆえ、この戦、私が後方でおちおちと座してはいられない。私は、この後の戦で諸君と共に、前線にて楚兵と戦うであろう。」
大胆な、宣言であった。
項王ならばいざ知らず、韓信が前線で武勇を示すなど、誰も予想も期待もしていなかった。
曹参は、思った。
(大将として、決意を示すつもりであるか、、、悪くはないが。)
しかし、彼から見れば、大して効果があるとも思えなかった。
韓信は、軍略の人であった。
武人肌とは、いえない。
愛用の長剣を振るったところで、敵を倒す威力にもなりそうにないし、何より大して絵にならない。兵卒の士気を奮わせる大将とは、項王のような傑物であった。項王ならば、前線に出れば兵卒は彼の勇姿に打たれて奮い、その強さは数層倍にもなるであろう。
だが、韓信と項王とでは、身にまとっている空気の濃さが、比較にならない。
韓信は、将卒たちに向けて言った。
「各人、、、次の戦は、激戦となろう。戦場では、私の指示に、よく注目せよ!」
彼の声は、荒涼とした冬空に、吹かれて広がった。
次の戦は、動き始めた。
漢軍は、斉都を発して、東に進んだ。
東からは、楚軍がやがて、ひたひたと近づいて来た。
会戦は、いずれ必至となろう。
韓信は、配下に言った。
「会戦の地点は、斉王が陣する高密(こうみつ)の、前面となるだろう。」
灌嬰は、言った。
「― その近辺には、防ぐ塁すら、見当りません。」
防御の拠点は、ない。
つまり、野戦より他に、選ぶ戦法はないということであった。
曹参は、言った。
「― いっそ、河で防ぎますか?」
幸いに、濰水(いすい)という流れが、高密の手前にある。
この河を挟んで対峙すれば、我が軍に有利となるかもしれない。
しかし、敵は楚軍である。
河などが、どうして彼らの防ぎとなるだろうか。犠牲も恐れず、勇躍して渡って来るであろう。
しかし、韓信は言った。
「― 防いでいては、破られるばかりさ。こちらから、攻めなければならない。」
敵地の真っ只中に軍を置いている以上、防御などを考えては、必然にじり貧となる。
韓信は、その前提を、見失うわけにはいかなかった。
灌嬰は、聞いた。
「ならば、どのように攻める?」
しかし韓信は、馬の背に揺られながら、彼の問いに答えなかった。
(策が、あるか、、、)
灌嬰は、彼の沈黙を、そう解釈した。
(またも、必勝の策があるのか。それで、この冷静、、、)
曹参は、空恐ろしくなった。
しかし、誰が知ろう。
韓信の心中は、危うい困難を直前にして、激しく湧き立っていた。
彼は、恐るべき賭けに出ようとしていた。しかし、それは彼の軍略の、常のことであった。強敵と戦ってそれを上回ることなど、どうして安全な道を辿って、成し遂げられるだろうか。そのようなことなど、彼はこれまで一度として、ない。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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