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二十一 天地人(2)

(カテゴリ:国士無双の章

神算、鬼謀の将ならば、戦を始めるずっと前に、あらかじめ宮城にて計算することによって、すでに勝利を掴んでいる。きっと、そのはずだ。そうでなければ、ならない。

このような俗説が、世にはまかり通っている。
いったい、名将や軍師と呼ばれる者どもは、予言者であるとでも思っているのだろうか。
千変万化して止まない、政治・外交・軍事の局面を、ずっと前から計算し尽くせるような神智を、誰が持っているのであろうか。
太公望呂尚のような大軍師は、後世の話の中では、ほとんど超人として現れる。彼のような人物は、全てを見通し、全てに適確な断を下し。そして語り継がれる話の中で、太公望は何も思い悩むことがない。嚢(ふくろ)の中から取り出すように、将来の結果をきれいに料理して、並べて見せるのである。
だが現実は、違う。
現実の将は、ぎりぎりの間(あわい)に自らの身を置いて、勝つか負けるかの紙一重の境界から、際どい選択をする。際どくなくては、敵の意表を尽くことができない。もし彼が衆人ですら予測できるような用兵を採るならば、必ず敵に見破られて、大敗する運命が待っていることであろう。
この際どくて、厳しい課業に耐えられる将こそが、真の知将である。
真の知将に、必要なこと。
それは、一つに情勢を分析する、謙虚で冷静な目。
それと、もう一つは、自分の仕事に対する、絶対の自信。
空元気などは、不要なことだ。自分の仕事に対する自信さえあれば、必ず断固たる決断を下して、飛躍することができる。
韓信は、出陣の時刻が迫っているにも関わらず、自らの陣営でいまだ独り、瞑目を続けていた。
「― 楚軍は、強い。一挙に、倒さなければならない。」
彼は、これらの相矛盾する事実と課題を綜合しようと、考えに考え続けていた。
曹参が言った通り、楚軍の精鋭は、これまで彼が勝って来た兵とは、まるで格が違う。
楚兵は、たとえ罠に追い込んでも、恐慌することなどない。むしろ勇躍して、罠に喰らい付いて破ろうとする。集団の心理を操って恐怖に陥れるのは、韓信の得意技であった。しかし、今度の敵には、通用しない。
楚軍の中核にいる騎馬兵どもには、既存の兵法書に書かれた防衛術は、通用しない。
彼らは、兵卒の盾を難なく蹴散らしてしまう。
弩(いしゆみ)の斉射を、素早くかわしてしまう。
兵の遅鈍な動きを嘲笑うかのように、陣の側面に周り込んで、切り崩す。
いかなる布陣を持っても、これを押し留めることが、できそうにない。
「恐るべき、敵だ。」
韓信は、敵軍の強さを、完全に認めた。
しかし、彼はすぐ後に、言葉を続けた。
「しかし、倒さなければならない―」
彼は、瞑目を続けた。
小楽が、彼の横で、気をもんでいた。
ついに、出陣の時刻となった。
大将が、これ以上留まることは、許されない。
小楽は、韓信に声を掛けた。
「相国、、、もう、立ってください。」
韓信は、両の眼を開いて、小楽に言った。
「小楽。」
小楽は、答えた。
「はい。」
韓信は、言った。
「― 私は、有名なのであろうか。」
小楽は、答えた。
「あなたが思っている以上に、有名です。」
韓信は、言った。
「私のこれまでのことは、どのくらい、知られているのであろうか?」
小楽は、答えた。
「知らぬものとて、誰一人ありません。すでに国士無双韓信は、伝説中の一人物となって、人の世に徘徊しています。」
韓信は、苦笑した。
「それでは、まるで項王のようだ。」
小楽も、少し笑った。
「韓信の名声は、すでに項王に匹敵していますよ。韓信と項王との違いは、自覚があるかどうかなのです。項王は、自分の強さを確信しているから、常に軍の先頭に立って、敵陣に斬り込もうとするのです。」
韓信は、言った。
「さすがは、項王だ。常に軍の先頭に立つ大将、など、、、」
彼は、ようやく立ち上がった。
「、、、前代未聞だ。」
彼は、小楽から愛用の長剣を渡されて、腰に帯びた。
韓信は、小楽に言った。
「小楽。この戦が終わったら、もう一度淮陰に行ってくれよ。私は、まだあの人たちへの望みを、捨てていない。そう簡単に、亡んでなるものか。」
韓信は、斉に討ち入ってからこのかた、ひたすらに走り続けて来た。
留まっても、思案しても、どうにもならない以上は、自らの道を切り開くために、走り続けた。
その先に何があるのかを、いまだ彼は考えていない。
彼がまず思ったのは、淮陰の人々のことであった。
小楽は、言った。
「ああ、淮陰、、、かしこまりました。つまり相国は、この戦に勝つ道を、見出したのですね?」
韓信は、彼に向けて、言った。
「天と地と、人の示すがままに、進むべし―」
彼は、謎を掛けるというわけでもなく、こうつぶやいた。
彼の心中は、いまだ人に伝える形を、持っていなかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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