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二十一 天地人(1)

(カテゴリ:国士無双の章

楚軍が来るべき戦に向けて着々と準備していた頃、韓信の斉攻略は、それ以上の速度で進められていた。

漢軍は、斉都の臨淄(りんし)を、困難もなく陥とした。
田氏一族が恐慌して、ろくに戦いもせず逃げ出したせいでもあったが、主を失ったはずの都の秩序は、予想外によく保たれていた。斉の官吏たちが、韓信の入城を整然と待ったからであった。
官吏たちは、宮城の接収に現れた韓信に、拝礼して申した。
「主は変わっても、国は続きます。相国はよろしく、民を安んじて傷つけぬよう、士卒の統率に心を配りたまえ。行政の仔細は、全て我らが滞りなく、司ります。」
彼らの態度は、かつての趙国の百官と同じものであった。さすがに大国の官吏たちは、心得ていた。
韓信は、彼らを認めて、うなずいた。
「よろしい。」
今の彼は、以前とは違って、彼らの期待を拒みはしなかった。まだ斉の平定は、終わっていない。行政の道を、外部から来た者が無用に混乱させては、ならなかった。
韓信は、斉都を収めるとともに、時を措かずして周囲の平定を、配下に指令した。
副将曹参には、後背に当る濟北郡の平定を、命じた。
もう一人の副将灌嬰には、博(はく)・嬴(えい)への転戦を命じて、ここに逃げた田横を叩かせた。
ひとしきり斉は威圧されて、平定は順調に進むかに思われた。
しかし、韓信は、早くも次の決断を下した。
「国内の平定は、ここまでだ、、、楚軍を先に、倒さなければならない。」
楚軍は、斉王を援助する名目を掲げて、斉領に踏み込んでいた。
すでに、楚将の龍且からの使者に対しては、絶交の言葉を告げて送り返している。
韓信は、曹参・灌嬰ら配下の諸将を斉都に結集して、彼らに告げた。
「― 我が軍は、これより東進して、濰水(いすい)の線まで進む。やがて楚軍と、会戦すべし。」
新たなる戦いの、大号令であった。
一同は、緊張感に打たれて、空気は引き締まった。
韓信は、言った。
「高密(こうみつ)には、斉王が逃げて籠っている。斉王と楚軍を砕いたとき、田氏一族の残党は押し黙ることとなるだろう。斉の平定のために、為すべきことは、この一戦である―」
諸将は、しばしの間、咳(しわぶき)一つ立てずに沈黙した。
やがて、曹参が、沈黙を破って大将に聞いた。
「またも、危ない戦いだ、、、勝てるのでしょうな?」
もう、敵国の奥深くまで、入り込んでしまっている。
この上は、田氏一族を一掃して、斉を完全に平定しなければならない。
斉都は陥としたものの、いまだ田氏の残党は、各地に残っている。
彼らの希望を粉砕するために、漢軍が一戦して大勝利することは、確かに最も効果的であった。
しかし。
やって来た楚軍には、最精鋭である、あの騎兵たちが含まれていた。
疾風が、燎原の火を散らすがごとき勢いで駆けるあの鉄騎たちは、これまでに漢軍を幾度となく、突き砕いた。諸将は、かつて彭城で彼らに食らった無残な大敗を、忘れていなかった。
(勝つことが最良の策であることは、分かる。だが、かと言って、、、)
望む通りに、勝てると言うのか。
いくら、この大将が国士無双の軍略家であるといえども?
曹参は、あえて懐疑的であろうと思った。
韓信の天才を、彼もまた認めている。だが、信仰したくはなかった。漢王の配下として、彼を信仰するわけにはいかなかった。それで、冷静に状況を見詰めたとき、これまでの戦よりさらに大きな賭けをしようとしているように、曹参には見えた。
曹参は、言った。
「楚軍は、号して二十万。いや、兵数が問題ではありません。楚の精鋭は、これまで戦って来た魏や趙の兵とは、格が違います。彼らは、戦場で恐怖して逃げることなど、ありません。彼らが突進すれば、我が兵は怖れて怯みます。これに、勝てるのですか。相国、あなたの軍略だけで、勝てるのですか―?」
彼の言葉は、全ての楽観を、打ち払うものであった。
曹参の横にいた灌嬰は、慌てて韓信を見た。
彼は、韓信の返事に、期待した。
しかし韓信は、言った。
「いま戦わなければ、各地で田氏の残党との、籠城戦となる。それは、国を枯らし、民を亡ぼすであろう。戦を、長引かせてはならないのだ。楚と戦うことは、ただに軍略のためだけではない。」
兵は、国の大事である。
戦のために、戦に溺れてはならない。
彼が思いを馳せた地点は、まずそこにあった。
あえて君命を冒し、他国に侵入した以上は、最も早く混乱を収めることが、彼の義務であった。
曹参は、韓信の答えに、満足できなかった。
「それは、会戦の理由であっても、勝利の策ではありません。相国は、勝利の策を、お持ちなのでしょうな?、、、我らは、それを聞きたいのです。」
曹参は、韓信に重ねて問い質した。
一同は、大将の答えを、再び待った。
韓信の姿勢は、小揺るぎもしなかった。
彼は、答えた。
「― 勝利の策は、やがて現れるであろう。」
曹参も、灌嬰も、彼の答えに、瞬時呆気に取られた。
次の瞬間、曹参の語気が、強まった。
「― やがて現れる、とは、、、大将が、何という答えですかっ!」
諸将も、今は曹参に釣られて、不満の顔色を見せた。
国士無双なのに、今から考えるとは、無謀に過ぎはしないか?
しかし、韓信は、彼らの非難の目に、動じなかった。
彼は、言った。
「兵法家とは、刻々と変転する状況に応じて、奇兵の策を生み出すものだ。勝たなければならぬ、事実がある。兵法家は、その事実から、勝利の策を必ずや導き出すであろう。我が軍は、すでに私と共に、引き返すことができない。私は兵法家として、諸君に勝利を与える。必ずや、与える。それが、私の為すべき道なのだ!」
韓信は、諸将にこう言い放った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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