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二十 項軍の魂(3)

(カテゴリ:国士無双の章

籠城を拒否した龍且は、楚軍の諸将を集めて、告げた。

「漢軍に、楚軍の精強を再び、見せ付けるのだ― 彭城を、思い出せ!」
彭城で、楚軍は五十六万の漢軍を、完膚無きまでに叩きのめした。
いかなる軍略も、兵数の利点も、楚軍の突撃はこれを粉砕して見せた。
野戦で、この楚軍に勝てる敵など、大陸のどこにいるだろうか?
龍且は、言った。
「我は籠城戦を、拒絶した。諸君は、足を躍らせて進み、馬を駆けさせて蹂躙するところに、無敵がある。我らは、そうやってあの強秦を、葬った。これまでに何度も、漢の大軍を食い破った。自らの力を、信じるのだ。我らは野で戦えば、敗れることなど無し。断じて、無し!」
楚軍の大将の言葉は、居並ぶ各人に向けて、力強く響いた。
その中の一人に、龍且は声を掛けた。
「呂馬童、、、まだ、躊躇(ためら)っているか?」
呂馬童の顔は、冴えなかった。
韓信が敵となったからには、楚の一将として、彼はこれを討たなければならない。
だが、あまりにも無念であった。
龍且は、彼の表情に、いまだにあきらめ切れない様子を見て取った。無理も、ない。
だが、龍且は、彼に言った。
「お前は、項王の股肱ではないか。いざ敵となった以上は、倒すことこそが、武人の進む道だ。我が軍の鉄騎を率いる身として、もはや不決断は、許されないぞ。」
龍且は、それから総員に向けて、言った。
「敵将は、韓信。ここしばらく、大陸で我がもの顔をして、踊り回っている。諸君も、名前を聞いているだろう。」
知らぬ者など、いるはずがない。
彼は、もともと楚軍に属していた。だがその頃は、無名であった。韓信の楚軍時代のことを覚えている者は、軍中にほとんどいないぐらいであった。
しかし彼は、楚軍を捨てて漢王のもとに走った。漢は、彼をいきなり大将軍に任じた。驚くべき抜擢は、やがて全く正しかったことが、次々に彼が成し遂げた勝利の数々で、証明されていった。
龍且は、諸将の顔を、見回した。
彼は、言った。
「― 諸君の心中にすら、不安がある。」
誰も、声を出す者とて、いなかった。
龍且は、一人語り続けた。
「国士無双と呼ばれている男に、果たして勝てるのだろうか、と、、、あの男も、名を挙げたものよ。」
龍且は、わざと肩をすぼめて、苦笑した。
大将として、自軍が気圧されていると感じたならば、すかさず士気を上げてやらなければならない。それが、率いる者の務めであった。
龍且は、言った。
「私は、韓信が楚軍にいた頃のことを、よく覚えている―」
彼は、いかにも軽い口調で、語り始めた。
「今やまるで軍神のように畏れられている男は、楚軍の郎中として、全く取るに足らない小人物であった。それがわずか三年ほど、前のことだ。三年で、人が変わるものか。彼奴は、はなはだに与(くみ)し易い人物で、少しも畏れるに足りない。この間に積み上がった名声などは、虚名に過ぎぬ。彼がこれまで倒した相手は、全て弱敵であった。弱い敵と戦って勝ち、それで国士無双などという虚名を、膨らませたのだ。」
龍且は、韓信が楚軍にいた頃には、すでに軍中で武勇の将として名が高かった。楚軍の兵卒たちの間では、韓信など歯牙にも掛けられなかったのに対して、龍且は項王配下の名将として、誰もが口を揃えて讃えていた。龍且は、武勇を重んじる楚軍にあって、列伝中の最右翼であり続けて来た。
今でも、彼は勇将としての名を、貶めていない。
龍且は、断固として声を高めた。
「だが!― 諸君には、彼奴の虚名など、通用しない!」
彼は、目の前の机を、どんと叩いて気勢を上げた。
「諸君らは、大陸で最強の軍団である。韓信は今、斉をだまし討ちして都を掠め、調子に乗って斉領に深入りして、進んでいる。それが、彼奴の油断というものよ。ついに韓信の虚名をひん剥く時が、やって来たのだ。ひん剥くのは、我ら楚軍の鉄騎である。韓信に、楚軍とはどれだけ強いのかを、奴の死をもって、思い知らせるのだ!」
龍且は、頑丈な体からありったけの鋭気を発して、諸将を励ました。
さすがに、勇将であった。
巨木のように座る彼の熱い気迫は、居並ぶ者どもの体温までを、ぐいぐいと上げていった。
「打ち砕け、漢軍を!」
龍且は、号令した。
「唯(おう)!」
諸将は、今こそ声を揃えて、答えた。
龍且は、立ち上がって叫んだ。
「踏み潰せ、韓信の虚名を!― 諸君にしか、できぬ勲功(いさおし)!」
諸将は、立ち上がって叫び返した。
「おうよ、踏み潰してくれる!― 我らは、楚軍!」
一同は、大いに盛り上がった。
大将の気迫は、楚軍を奮起させるのに、充分な効果を発揮した。
その中で龍且は、陣中の一人に、再び目を向けた。
呂馬童だけは、声を揃えていなかった。
彼は、周囲のように立ち上がりもせず、座り込んだままであった。
こうして、軍議は終わった。
諸将は陣営から散って、今は来るべき戦闘に向けて、兵を鍛える用意に余念を置かなかった。
その中で、龍且と呂馬童だけが、陣営に残っていた。
龍且は、いまだ軍議の時のままに座り続けている呂馬童に、声を掛けた。
「お前は、疑っている―」
呂馬童は、言った。
「韓信を、侮ってはなりません。」
龍且は、言った。
「韓信などは、踏み潰す。この楚軍には、軍略など通用せぬ。」
呂馬童は、鋭い声を出した。
「将軍―!」
韓信は、与し易い人物などでは、ない。
呂馬童は、韓信と戦うことの恐るべきを、分かっていた。
呂馬童は、歯をくいしばって、龍且を見据えた。
龍且は、彼に言った。
「― 分かって、おるわ。」
龍且は、呂馬童に向けて、先刻とは打って変わった低い調子で、訥々と語った。
「韓信が恐るべき将に成長したことなど、知らぬこの私ではない。彼の軍略は、真の天才だ。」
彼の心中の本音は、すでにそこにあった。龍且は、もはやこの三年の韓信の業績を、かつての彼と比べて侮るための材料になど、しようとはしなかった。
「だが、考えてみろ、、、呂馬童。」
龍且は、若者を説き伏せるかのごとくに、語った。
「項軍の強さは、軍略などを越えた気概で、勝って来たのではないか。それを、軍略を恐れて、慎重に構えろなどと、大将の私がどうしてあの無敵の者どもに、訓示することができようか?項軍は、お前たち鉄騎と兵卒の精強によって、戦って勝つのだ。それ以外に、勝つ道はない。現にお前たちは、これまで軍略を越えて、勝ち続けて来たではないか?」
龍且は、陳餘などよりもよほどの、名将であった。
「将軍、、、」
呂馬童は、うなるばかりであった。
龍且は、莞爾(にこり)として、彼に言った。
「私は、お前たちを信じる。信じなければ、大将ではない。韓信と、いざ見事に戦ってくれようぞ?」
龍且は、呂馬童の肩を、とんと叩いた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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