«« ”二十 項軍の魂(1)” | メインページ | ”二十 項軍の魂(3) ”»»


二十 項軍の魂(2)

(カテゴリ:国士無双の章

楚軍は、兵数二十万と号し、斉王の陣取る高密(こうみつ)に向けて進んだ。

龍且将軍のもとに、斉王から、軍師と称する者が派遣されて来た。
龍且は、苦笑した。
「斉は、我が軍を武勇だけと思って気を回したのか。要らぬ、節介をする。」
とにもかくにも、友軍の申し出を断るわけにはいかない。龍且は、陣営において、斉人の軍師と会見することにした。
将軍の前に現れた男は、いかにも小才子といった風の、学者先生であった。斉都には、このたぐいの人物が、掃いて捨てるほどに多い。
先生は、要点から先に語らず、迂遠な学説から説き始めた。
「将軍。兵法の『九地』を、ご存知ですか?」
先生は、細長い指をした手をくねくねと折り曲げながら、言った。
龍且は、言った。
「知らん。」
先生は、これは好都合だと思った。
この時代の将軍には、生半可な兵法を仕込んで得意となっている者が、ますます多い。半端な知識は、無知よりも真の知識への妨げとなる。この先生は、兵法の大家であると自任していた。ゆえに、将軍が兵法を知らぬならば、自分の高度な専門知識を素直に受け入れてくれるだろうと、目算できた。
先生は、指をひっきりなしにくねらせながら、龍且に説いた。
「孫子兵法に、曰く。用兵の法には、九地あり。散地、軽地、争地、交地、衢地(くち)、重地、圮地(ひち)、囲地、それから死地。」
これらは、兵が置かれた状況を区分して、それぞれの特徴について述べたものであった。ただに地形の険阻を述べたのではなくて、置かれた場所によって敵軍の勢いと自軍の士気が変化する点を、むしろ分類の基準にしている。兵を統べる将軍は、自軍をよく戦わせるために、これら九地の状況を最もよく把握して、活用しなければならない。これは極めて科学的な、分析であった。
軍師先生は、言った。
「孫子は、九地を整理し、それぞれについて将が心得るべき要諦を、明らかにしました。この法を知らざる者は、必ず敗れます。よいですか―」
先生は、手をくねらせながら、これから各論の講釈をしようとするかのように、舌なめずりした。
しかし龍且は、言った。
「学説の講釈は、あなたの弟子にでも垂れてください。いま何をするべきかを、聞きたい。」
彼の軍には、時間の余裕などなかった。
先生は、将軍に止められて、何とも残念そうな表情をした。
しばらく不機嫌であったが、気を取り直して、再度語り始めた。
「つまりですな、、、いま漢は、重地にあるのです。しかるに斉楚は、散地にあるのです。」
龍且は、聞いた。
「重地、散地とは?」
先生は、細長い指をいろんな方向にくねらせながら、答えた。
「城邑の背にあること多き者は、これを重地にあると申します。漢は、わずかの間に斉地に深入りして、後背に多くの敵の城邑を残しながら、進んでいます。このような兵は四方が敵に囲まれて逃亡することができないので、常以上に力戦することができます。漢は斉を破り、その鋭鋒は当ること難しく、そして深く重地に入って戦闘する構えを作っているのです。これと戦闘することは、はっきり申せば、兵法上忌むべきことです。」
龍且は、軽くうなずいた。
「ふむ。」
先生は、続けた。
「いっぽう、斉楚は自らの領地で戦うわけです。諸侯自らその地に戦うならば、これを兵法では散地にあると、申します。散地においては、兵は敗れても逃げればよいと考えるゆえに、士気は上がりません。敵は重地にあって、味方は散地にある。将軍は、よろしくこのことを察したまえ。」
龍且は、言った。
「― つまり、漢軍とは戦うなと。」
先生は、将軍の言に我が意を得たりと、喜んだ。
彼は、両の手を表裏に何度もひっくり返しながら、説いた。
「いま、斉都は陥ちましたが、いまだ各地には斉の諸侯と将軍が、残されたままです。これらの者に斉王から使いを発して、楚の来援を告げるのです。そうすれば、彼らは再び勇躍して、漢の背後で蜂起することでしょう。いっぽう我らは、漢軍と戦うことを避け、城壁を深くして守りに徹するのです。さすれば、漢軍は、斉地に深く入って敵に囲まれ、干上がるばかりとなることでしょう。いま戦闘することは、愚策です。将軍はよろしく戦わず、斉王とともに籠城する策を、取られるがよい―」
それが、この軍師先生の携えて来た、進言であった。
先生は、将軍に得々とした表情を向けた。
(早く手を打ち鳴らして、同意するべし―)
彼は、将軍の返事を待った。
龍且は、頬に手を当てて、聞いていた。
彼は、しばし何も、答えなかった。
先生は、将軍がすぐにも身を乗り出して同意すると、思っていた。
しかし期待は、肩透かしを食らったかのようであった。
先生は、将軍が置いた長い間合いに、困惑の色を隠せなかった。
(楚人めが、、、何を迷うか?)
彼は、内心で愚者の集まりであると軽蔑している楚人の将軍が、自分の説に黙考などしていることが、奇怪だと思った。
やがて龍且は、両の掌を、胸の前でゆっくりと重ねた。
「籠城、は、、、」
彼は、語り始めた。
その後、おもむろに手をぱちん!と打ち鳴らした。
「― やらぬ!」
将軍の言葉を聞いた軍師先生は、耳を疑った。
彼は、手をますます激しくくねらせながら、必死に説いた。
「兵法の、教えるところですぞ!我が道を取らなければ、必ず敗れるのですぞ!将軍、、、どうして、分からぬかっ!」
しかし、龍且の返事の調子は、素っ気なかった。
「項軍に、籠城して勝つ道などない。籠城などしても、我が軍の天下に聞こえた長所を、どうして生かすことができようか。我が軍は、野戦にて漢を破る、それより他に、道はない。」
軍師先生のたび重なる説得も、無駄であった。
龍且は、斉王のもとに、先生を追い返してしまった。
去り際に、軍師先生は吐き捨てるように、つぶやいた。
「楚人は、やはり沐猴(さる)だ!、、、何も、分かろうとせぬ!」
先生は、憤懣やる方ない様子で、肩をいからせて斉王のもとに、戻って行った。
おそらく、今後斉軍は、戦場で期待できないこととなろう。
田氏一族の統率は、それほどに崩壊しかかっていた。ゆえに斉軍は戦場での戦を避けたかったのが実の内情だったのであるが、楚軍はそのような斉と歩調を合わせることを、拒んでしまった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章