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二十 項軍の魂(1)

(カテゴリ:国士無双の章

楚軍もまた、動いていた。

韓信が、ついに平原津を越えた。
彼の配下の蒯通が、呂馬童に言ったとおりであった。
その報を受けて、楚軍もまた斉領に踏み込んだ。
総括する将は、龍且将軍。項梁の時代以来、項軍を支え続けてきた将であった。
呂馬童が、彼のもとに駆け付けて、出陣すべきことを説いた。
「― 項王が、認めた出兵です。」
呂馬童は、龍且に説いた。
龍且は、彼の言葉を受けて、手持ちの兵を動かすことに、同意した。
龍且が分担していた兵に、呂馬童が引き連れて来た江東の鉄騎が、加わった。
江東の鉄騎どもは、項王が自ら選んで鍛え、項王と共に進み、西に、東に、これまで多くの戦で圧倒的な武力を見せ付けて来た。彼らは、項軍の恐怖の象徴であった。
いま、韓信と楚が二方面から、斉を挟み討つ。
斉は、たちまちに終わるであろう。
これで天下の状勢は、大きく変わる。
もし韓信が漢に叛くことになるならば、楚漢の勢いは、再び逆転するだろう。
すでに漢に追い詰められている楚軍にとっては、この出兵が最後の希望となるかも、しれなかった。
進む楚軍に、報告が入って来た。
斉王田廣と、相国田横が、斉都を捨てた。
田横は博(はく)に逃れ、田廣は高密(こうみつ)に逃れた。
斉の他の将軍たちもまた、散り散りになって辺地に逃げて行った。
韓信の用兵は、さすがに敵に時を与えることが、なかった。
この上は、韓信と共に、斉王と田横を捕らえて、殺すのみ。
楚軍は、今後の行動を、そのように期待した。
だが―
韓信からは、いまだに何も言って来なかった。
呂馬童は、蒯通からの連絡を待った。
彼が示唆した通りに、いま楚は斉地を侵略している。
それというのも、韓信が平原津を越えることは、漢王に叛いたしるしであると、蒯通が呂馬童に囁(ささや)いたからであった。呂馬童は、彼の言う通りに、動いた。
しかし、蒯通からの連絡すら、やって来ない。
将軍の龍且は、呂馬童に言った。
「― やはり、虚言であったか。」
呂馬童は、困惑して言った。
「虚言のはずが、ありません。虚言の、はずが、、、」
だが龍且は、言った。
「しかし、韓信からは、何も申して来ない。やはり、韓信は漢将のままだ。彼が漢王に叛くことなどは、お前の幻想であった。」
龍且は、これ以上の進撃を中止した。
兵を預かる将軍として、斉地に深入りせず、防禦に有利な地形に留まることを、判断した。
呂馬童は、唇を噛んだ。
彼は、いまだに韓信と手を結ぶ希望を、捨てることができなかった。
「彼より他に、項王と結べる者はいない。いないのだ、、、」
呂馬童は、望み続けた。
やがて、斉王から楚軍に連絡がやって来た。
韓信からではなく、敵と見込んでいた、斉王からであった。
龍且は、配下の武将たちを集めた。
彼は、言った。
「斉は、漢将韓信により、漢の手に陥ちた。漢は、最後の一国まで、平定してしまった、、、我が軍は、漢軍と対決しなければならない。」
聞いた呂馬童は、背筋が寒くなった。
凍てつく北国の冬空の下で、陣中の空気もまた、冷え込んでいた。
龍且は、続けた。
「漢軍は、すでに斉都を陥とし、斉王を追って濰水(いすい)の線まで進もうとしている。斉王は高密にあって、我が軍に救援を求めて来た。これを見捨てたならば、漢は斉を完全に平らげて、楚の将来は絶望となろう。今は、斉王を助けて支えるより、楚の進むべき道はない。」
呂馬童は、声を上げた。
「― 将軍!、、、」
だが、龍且は、彼にその後を言わせず、首を横に振った。
龍且は、言った。
「韓信は、我が軍と手を結ぶことは、ない。」
彼にとっても残念なことで、あった。
龍且もまた、韓信に対して合従の期待を、持っていた。
呂馬童は知らなかったが、龍且は、楚軍を率いる将軍として、進む韓信に対してすでに進退の姿勢を問う使者を、送っていた。
使者は、龍且のもとに、送り返された。
使者が携えて来た韓信の言葉は、きっぱりとした対決であった。
― 我は漢軍を率い、敵する者を討つ。貴軍とは、戦場で相見えるだろう。
それが、韓信から龍且への、返答であった。
もはや、絶交となった以上は、相手に幻想を持って期待してはならない。断固とした、武力対決の覚悟をするより、他はない。
龍且は、言った。
「斉軍などは、当てにならない。この我が軍で、韓信と戦うことを、覚悟せよ。敵のこれ以上の東進を防ぐために、我が軍もまたこれより、濰水の線に向けて進むこととする―」
龍且はそう諸将に告げて、時間の浪費を許さず、総軍に進撃を命じた。
「呂馬童― お前も、急げ!」
龍且は、うなだれて座ったままの呂馬童を、一喝した。
事態は、急変してしまった。
今は彼も、覚悟を決めて、韓信を倒すために立ち上がらなければならない。戦って、漢を倒さなければならなかった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
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第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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