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十九 狗それとも虎(2)

(カテゴリ:国士無双の章

漢王は、出撃を間近に控えていた。

すでに項王は、梁に向けて転戦している。
この身だけが、ぐうたらに過ごしているわけには、いかない。
漢王は、軍略で敵わなくとも、気概だけは見せなければならなかった。天下を奪おうという気概ならば、自分は天下随一であると、自負していた。誰にも、追随を許さない。
「狗か、虎か、、、」
漢王は、寝所の褥(しとね)の上で、つぶやいた。
冬の寝所は、貧しい庶人にとって、まことに辛い。
夏も鬱陶しいが、蚊さえ我慢すれば、庶人は外で寝ればよい。
しかし、冬は空気も地面も冷たく、庶人の貧しさでは、暖める道具すらない。うんと若い頃の漢王もまた、寒い冬には震えて眠れない夜を過ごしたものであった。それで、酒を覚えてからは、飲んで寝ることにした。女を覚えてからは、人の柔肌で、暖めさせた。酒と女を好んだのは、漢王にとっては、冬をしのぐ手段とも言うことができた。
「役に立つ狗は、御し難い、、、」
漢王は、豪華な敷布の上で、またつぶやいた。
今の彼は天下の大王なので、暖める道具ならば、求めればすぐに用意してくれる。
綿の入った寝衣もあれば、羊毛を織った掛布もある。
彼は、炕(こう。オンドル)の仕掛けをした寝所に初めて入った時には、その快適さに驚いた。床下に、焚いた火の煙を通す道を作りこむ。熱された煙は床から能率よく寝所を暖め、しかも煙は戸外に吐き出されて、少しも煙たくない。この時代にはいまだ大陸に広まっていない、北方由来の珍しく素晴らしい暖房であった。
漢王は、人の頂点に立って、この世にはまだまだ珍しい文物がたくさんあることを知った。そして、彼は大王であるから、誰よりも真っ先にそれらの新奇な快適さを、味わうことが許された。おそらく、これから以後数百年の間も、庶人は誰一人として知ることがないであろう。こんな境遇に立っただけでも、彼は大王となった自分の人生の快を、素直に喜んでいた。
しかし、今夜の彼の寝所には、新奇な暖房は使われていなかった。
陣中にあって用意することが難しかったこともあるが、彼は戦陣にあってはあまりに快適であることを、望まなかった。庶人時代からの暖の取り方が、彼にとっては、いちばん体に合っていた。
「役に立つ狗を飼うのは、難しいわい、、、黒燕?」
漢王は、彼の後ろに回って肩をもむ、女に声を掛けた。
背中に、人肌が心地良かった。
寵愛する戚氏がまた孕んでしまったので、漢王は代わりとなる夜伽の女を、探した。
目に止まった、女がいた。
黒燕は、漢王の寝所にうまうまと滑り込んでいた。
今夜の黒燕は、漢王に答えなかった。
いつもは、媚びるようでいて、きつくつねられるような彼女の話術が、漢王を喜ばせた。
しかし、今夜の彼女は、何も言わなかった。
(、、、狗じゃ、ない!)
黒燕は、この男を殺すべき時が近づいたことに、内心胸を躍らせていた。
いよいよ、韓信がこの男から離れた。
逆転の日は、近づいた。
言葉を返さない彼女に対して、漢王が言った。
「俺を、殺したいか?」
黒燕は、どきりとして、手を止めた。
手が止まったことが、相手に勘付かれはしないかと、彼女は気をもんだ。
しかし、漢王は、笑って彼女に言った。
「殺したいに、決まっている。俺は、女に幻想なんか、何一つ持っていない。」
漢王は、肩をゆすって、くっくっと笑った。
「俺は、ひどい奴だからな。いや― 違う。俺は、この世の常識どおりに、生きているだけなのさ。常識では、この世は勝った者が、全てを奪う。下に敷かれる者は、力で抑え付けられる。男と女も、そうさ。男は力を持っているから、女を抑え付けているだけだ。愛してなど、いるはずがない。従順な婦徳なんぞ、嘘に決まっている。」
黒燕は、何も答えなかった。
漢王は、答えを待つこともなく、構わず一人で語り続けた。
「阿雉めは、きっと俺を殺して喰らいたいとまで、思っているだろうな。殊勝に人質であり続けながら、夫の俺はこの有様だ。あいつは、実に大した女だ。だが、もうあいつと心を通わせることは、無理だろうな。永久に、敵同士だ。」
彼は、呂后のことを、思った。
彼女は、やはり自分に過ぎた女であった。
だから、もう彼女を裏切った今となっては、漢王は彼女と敵同士となったことを、覚悟していた。男と女の戦いは、男同士の戦いよりも陰に籠って見え難いが、実はずっとずっと厳しくて、激しい。漢王は、これまでの人生経験から、それを知っていた。
漢王は、言った。
「女に比べれば、男は狗だ、、、男などは、狗にすぎない。使われることを、喜んでいやがる。」
黒燕は、今夜決めようと、思った。
「どいつもこいつも、人を信じている。何という、愚か者だ、、、」
漢王の明日は、早かった。
明日のうちに、漢王は中原に向けて出陣する。すでに、先発隊には、河を渡らせていた。
漢王は、疲れを残さないように、眠りに就こうとした。
漢王は横たわり、やがて寝息を立て始めた。
黒燕の、手が動いた。
だがその時、彼女は後ろに殺気を感じた。
横目でちらと振り返ったとき、背後に巨大な影が見えた。
(― 何て、いう!)
用心深さ。
漢王は、自分が殺されるかもしれない立場にいることを、誰よりも分かっていた。彼は、自分の命を守ることを忘れるような、舞い上がった勇者ではない。
今夜の寝所にも、彼の股肱である樊噲が、目を光らせていた。
樊噲の殺気は、恐るべきものであった。不審な動きを、決して見逃さない。
黒燕は、今夜手を動かすことが、できなかった。もしかして、勘付かれているのかもしれない。
(韓信― この男は、恐ろしい奴だ。)
黒燕は、思った。
彼女は、暗い予感に、取り付かれそうになった。
しかし彼女は、それを吹き飛ばしたい思いで、今遠い空の広野を駆けている男のことに、思いを馳せた。やがて彼が、結果を出してくれることを、願いながら。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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