«« ”二十三 再び背水(1)” | メインページ | ”二十四 突撃(1) ”»»


二十三 再び背水(2)

(カテゴリ:国士無双の章

斉の平原に、荒涼とした風が、吹いて過ぎて行く。

その中を、はるか南国出身の兵卒たちから成る楚軍は、進んだ。
楚人たちにとって、北国の風景は、まるで馴染まない。時折見える山の肌は、どれもこれも赤茶けて丸禿であった。斉国は古くから経済が開発されて、金属を溶かすために、あるいは土木工事を行なうために、またあるいは羊を放し飼うために、山々の木々が片っ端から切り倒されていった。いま、彼らが進む斉の地は、戦国時代の開発が行き過ぎていたことを、示していた。やがて、このままでいけばこの国はそう遠くない将来に、森林と自然を使い果たして死の土地に陥ちていくことであろう。人間の活動は、何という恐ろしい結果をもたらすのであろうか。しかも、人間たちが活動に熱中している間は、自分たちに死が近づいていることを、知らないのだ。
今も、この土地で戦が始まろうとしていた。戦は、人間が行なう最も戦慄すべき、浪費であった。この浪費を、中国大陸はもうこれまで数百年に渡って、間断なく繰り返して来た。
それでも、軍は進んで行く。彼ら楚軍もまた、漢軍と同様に、はるか遠くの国からやって来た。この見知らぬ地で白骨と化すのは、我らであるか。それとも、彼らであるか。間もなくどちらかがそうなることは、もう間違いがない。戦となることは、決まったのだ。
戦場となるべき地は、遠くなかった。
戦う気概を充実させた楚の兵卒たちにとって、一昼夜の行軍などは瞬時に過ぎてしまったように、思われた。
「明日の朝に命じても、この兵は満を持して戦うことが、できるだろう。」
龍且は、自分の軍の充実を、高く評価した。
彼が直前に受け取った情報では、敵の漢軍は、いまだ濰水(いすい)の対岸にある。
龍且は、思案した。
「我が軍は一挙に渡河して、敵を襲うべきであるか―」
彼は、そう考えた後で、ふと躊躇(ためら)った。
「いや。川の流れを、この目で見極めなければならない。我が予想のとおり、流れが枯れているのか、どうか。もし枯れているのならば、川などは我が軍の防ぎになど、なりえない。」
韓信は、必ず何か、計略を用いて来るだろう。
龍且が為すべきことは、韓信に計略を使わせる隙を与えず、無敵の騎兵どもを韓信その人に対してぶっつけることであった。彼の配下の猛者どもには、敵の弩(いしゆみ)も戈(ほこ)も、通用しない。龍且は、彼らの将として、情勢をよく判断し、そして判断したならば逡巡せず彼らを投入しなければならないと、自らの責務を心得た。
「明日の行軍で、我が軍は川にまで達するだろう、、、彼らを、信じるのだ!」
龍且は、今夜の思案を、そこで打ち切った。
「― 呂馬童!」
彼は、騎兵の長の名を、呼んだ。
呂馬童が、大将の宿営にやって来た。
龍且は、彼に言った。
「明日、お前は夜明ける前に、先駆けよ。先駆けて、敵軍の情勢をいち早く見極めろ。見極めて、この私に伝えるのだ。」
龍且は、信頼できる男の目による、いち早い観察を欲した。
呂馬童は承知して、それから大将に聞いた。
「― 明日、開戦するのですか。」
龍且は、彼に答えた。
「韓信は、計略の将。相手の出方を見てから、我も判断するだろう。我が命じたならば、お前は騎兵どもを率いて、韓信の首を狙うのだ。余人は、要らぬ。彼一人の首だけを、狙え。」
呂馬童は、いよいよ下された命令に、心中震えた。
龍且は、彼の心が動いたのを読んで、彼に言った。
「戦は、非情の世界だ。もし韓信がお前に首を取られたのならば、彼は軍略の才が足りなかっただけのことだ。奴は、この戦で命を賭けるであろう。我らもまた、命を賭ける。」
龍且は、そう言って、腰の剣を抜いた。
彼は、抜いた剣のを、彼の前に立つ呂馬童の肩の上に置いた。
「申す。明日は、戦う以外のことを、考えるべからず―!」
龍且はそう言って、剣の腹で、呂馬童の肩をがつん!と一叩きした。
呂馬童は、龍且と目を合わせた。
互いの目は、この上もなく厳しかった。
呂馬童は、やがて静かな声で、答えた。
「一切、承知しました―」
二人は、深くうなずき合った。
やがて、次の日。
冬の朝は、遅い。
龍且は、夜の明ける前から、呂馬童の報告を待っていた。
総軍は、すでに起きている。
兵も馬も、今日が運命の日となるであろうことを、予感しているかのような喧騒であった。
あちこちから炊煙が上がる中で、龍且の陣営だけは余計な物音も立てることが、なかった。
「食事は、軽く、しかし必ず取れ。今日のうちに決戦となるかも、知れぬからな―」
龍且は、自らは食事も取らぬままであるのに、配下のものたちに、朝食について細かく指令を出していた。
彼は、気を紛らわすかのように指示を与えながら、前線からの報告を今か今かと、待った。
「うむ!」
彼の耳に、馬蹄の音が、近づいて来た。
呂馬童が、戻って来た。
陣営に飛び込んで来た彼は、龍且に拝礼するのももどかしいかのように、伝えた。
「漢軍、動きました、、、!」
龍且は、その報告を聞いて、目を大きく見開いた。
「動いたのか!、、、それで、今、どこに!」
呂馬童は、言った。
「川を、渡りました。漢軍は、川を背にして、布陣!」
龍且は、その言葉を聞いて、衝撃を受けた。
「また川を、渡ったのか!、、、しかも、また、、、」
彼は、敵将韓信の用兵を、疑った。
「背水の、陣だと言うのか!」
呂馬童は、答えた。
「背水の、陣です。漢軍は、我が軍を待ち構える、様子、、、!」
龍且は、震えた。
韓信が趙で見せた、あの背水の陣の大勝利は、知らぬものなどいない。
韓信は、背水の陣を、いま一度行なおうとしているのか。
「何を、考える、、、韓信!」
龍且は、両の拳を、固く握り締めた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章