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二十四 突撃(1)

(カテゴリ:国士無双の章

楚軍は、いよいよ戦場に向けて、最後の行軍をした。

空は、今にも雪が降って来るかのような、憂鬱な色をしていた。
これしきの寒さに萎縮するような、軟弱な奴らではない。楚の健児たちは、勝利を信じて前に進む。これまでも、前に進んで来た。今日もまた、大将の号令一下、来るべき戦の場に向けて、足早に駆けて行く。
しかし、川の流れを見渡す地点に至ったとき、軍中の各所から、驚きの声が挙がった。
「背水、、、!」
「背水の、陣だ、、、!」
挙がる声には、うめきに近い色が、加わっていた。
「韓信、、、!」
「また、韓信の、背水の陣、、、!」
視界の向こうには、確かに漢軍がいた。
漢の赤旗は、兵の実数以上によく目立って、威嚇する効果があった。
赤旗を二列、三列と、楚軍の視界の水平に、立ち並ばせていた。
そして、陣が置かれていたのは、河岸であった。
陣のすぐ後ろには、川の流れがあった。
本日、漢軍は、井陘口(せいけいこう)で見せた大逆転の戦と、同じ布陣を楚軍の前に、披露して見せたのであった。
龍且は、戦場を見渡せる小丘にあって、眼下の光景をまじまじと睨んだ。
彼は、しばらく声を出さず、右の手で自分の口髭をつねり上げていた。
龍且は、自軍の将兵たちに、驚きと嫌疑の波が広がっていることを、感じ取った。
彼は、指に力を入れて、口元の髭をしたたか引っこ抜いた。
それから、口を開いた。
「― これは、偽兵だ。」
龍且は、眼前の漢軍が、誘いの偽兵であることを、看破した。
彼は、続けて言った。
「韓信は、我が軍を怖れさせるために、わざと背水の陣をやって見せたのだ。韓信、人の心を手玉に取りおる、、、!」
― 私がかつて武勲を挙げた、背水の陣。
― あの用兵を、本日楚の諸君にも、お見せしましょう。
― 攻め寄せれば、趙の陳餘と同じ運命が待っていますよ、、、さあ諸君、いかがかな?
龍且は、韓信の誘う声が、耳の側から聞こえて来るかのように、思われた。
丘の上に、馬蹄の音が押し寄せて来た。
呂馬童が、江東の騎兵どもを率いて、大将の龍且のもとに、やって来た。
呂馬童は、総軍進撃の準備が全て整ったことを告げて、それから龍且に言った。
「眼下にあるのは、漢軍。どのように、戦われるか―?」
龍且は、いまだ眼下の情景を、真っ直ぐに見据えていた。
それから彼は、目の前を指差して、呂馬童に声を掛けた。
「呂馬童。」
呂馬童は、答えた。
「は。」
龍且は、問うた。
「あの目の前の、兵。お前たち江東の騎兵で、、、亡ぼせるか。」
指差す先には、漢軍の赤旗の列があった。
呂馬童は、龍且の指の向こうを、馬上から凝視した。
それから、答えた。
「― あの兵を皆殺しにすることぐらいは、我らにとって、造作もないことです。あと十倍の兵がいても、我が騎兵は勝てるでしょう。」
龍且は、軽くうなずいた。
「そうか。」
それから、彼は、ふふと微笑んだ。
微笑む声は、やがて大きくなり、やがて哄笑に変わった。
呂馬童は、大将の様子を不審に思って、聞いた。
「何を、笑われる―」
大いに笑う龍且の手の指先は、しかし震えていた。
龍且は、笑う音の合間を縫うように、声を張り上げた。
「見よ!、、、見よ、、、あの、漢軍。諸君、目を凝らして、よく見るがよい。」
呂馬童はじめ、一同は目を凝らした。
龍且は、笑いながら、言った。
「見ろ、軍の先頭に、現れた者は、、、!」
一同は、思わず叫んだ。
「あうっ!」
「自らを、囮にしおったわ、、、さすがに、国士無双!」
布陣する漢軍の中央に、一騎の将が現れた。
騎馬の横には、「師」と大書された、華麗な真紅の大旗。
旗棹には、軍の兵権を握る者のしるしとして、旄(ぼう)が飾られていた。
あれはまさしく、総軍を指揮する、大将の旗幟。
馬上の将は、これもまた真紅の袍(うちかけ)に、黄金を打ち込んだ甲(よろい)と盋(かぶと)を、着込んでいた。
戦場で華美を好むのは、大将の特権であった。
項王、それに漢王は、目にも鮮やかな装束を持って、戦場に現れる。彼らが現れれば、配下の兵たちは勇躍する。勇躍させるのが、万乗の兵を率いる大将の、何よりもなすべき仕事。彼らは、そのことを心得ている。だから、天下の権を競うことができる。
だがまさか、彼もまた両雄を真似るとは、予想もされなかった。
馬上の長身に、腰の長剣。何よりも、戦場にあっても飄然とした、その空気。
龍且は、目がくらみそうになりながら、言った。
「軍の先頭に立つとは、、、何たる無謀か!」
呂馬童は、遠目からでも、漢軍の前面に現れた将の正体が、すぐに分かった。
呂馬童は、大きく叫んだ。
「韓信、、、!」
龍且は、言った。
「ここまで、挑発して来るとは。我らを迷わせるために、ここまで仕掛けて来るとは―!」
この敵、攻めるべきか。
それとも、怖れて逃げるべきか。
断を下す刻が、迫っていた。

          

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