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二十四 突撃(2)

(カテゴリ:国士無双の章

龍且は、諸将に聞かせるように、語った。

「ここまで、命を賭けるとは。韓信、さすがの、大胆よの、、、そして、攻めれば罠を、張り巡らせている。」
龍且は、べつだん誰かの下で、兵法を学んだわけではない。
しかし、彼はこれまで実戦の駆け引きを重ねるところから、戦の道理を経験で心得ていた。彼の熟練の勘は、万巻の兵法書を読むよりも、いざ戦場に立てばずっと適確な答えを出すことができた。
龍且は、言った。
「伏兵が、ある。間違いが、ない。」
呂馬童らは、固唾を飲んで、大将の次の言葉を待った。
龍且は、続けた。
「韓信は、何と自らを、囮とした。さすがに、国士無双だ。背後には、必ず伏兵が周り込んでいる。きっと曹参、灌嬰が別に兵を率いて、潜んでいる。奴らは、開戦を待っているのだ。」
龍且は、漢軍の真意を包囲戦と、読んだ。
前面に現れたあの韓信に、楚軍が勇躍して攻撃する。
その背後を、曹参、灌嬰の別働隊が、攻撃する。
韓信は、よほどに楚軍をかわす自信があるのだろう。囮を用いて後ろから不意に囲む包囲戦は、前面の囮が崩されずに残って、はじめて策として成り立つ。以前の井陘口(せいけいこう)の戦と、同じことであった。
呂馬童は、言った。
「伏兵の罠があるならば、そこに飛び込むのは、いわば虎口に入り込むこと。大将、あえて虎口を目指すか?」
龍且は、聞いた。
「呂馬童。お主は、虎口を恐れるか?」
呂馬童は、答えた。
「我らは、死などを恐れる者ではありません。ただ、楚のために、項王のために、無駄な死はできません。要の点は、ただ敵に勝つことばかり。大将。あなたが勝つための道を見極めて、しかる後に我らを、虎口に連れて行かれるがよい。」
龍且は、彼の後ろに控える騎兵どもを、見渡した。
いずれも、若さにあふれていた。
彼らは、粗野素朴な江東の田舎から、戦国の風雲に誘われ、江水(長江)を越えてはるばるとやって来た。
彼らを誘ったのは、若い主君、項王であった。彼らは、突如呉中の城市に現れた、あの神威の男の驚くべき力に打たれて、鋤も鎌も打ち捨てて付き従った。爾来、彼と共に戦場を駆け抜け、彼の下で数限りない戦に勝利し、そして彼と共に数多の屍(しかばね)の山を、残して去った。この江東の健児たちは、どこまでも項王と、彼の国と運命を共にしていた。そうする以外に、彼らに生きる道など、もう今となってはありえない。
彼らは、江東兵の中から選抜された、騎兵たちであった。項王の天才は、騎馬だけで戦場に突進する単独の軍団を創り上げる構想を、持った。項王が最も恃みとする江東兵たちから、多くの者が騎馬兵として鍛えられた。項王と共に戦い続けるうちに、いつしか彼らは戦場に現れるだけで、諸侯の恐怖となった。彼らを倒した者など、従来の戦術しか知らない中国の軍には、いまだ現れていない。
龍且は、不敵な面構えをする若者たちの表情を見て、うむ、と力強くうなずいた。
彼は、再び戦場の方面を向いて、言った。
「見よ。漢軍の背後にある、川を。我が予想の通り、水の流れはほとんど尽きている。韓信が、兵馬を出入りさせることができたのも、あの乏しい流れでは、当然のことだ。」
見下ろす先、漢軍の布陣する河原の後ろには、ほとんど剥き出しとなった河床があった。
斉の将軍がいかに不審がろうとも、目の前に見えているのは、枯れた濰水(いすい)の流れであった。徒歩(かち)で渡ることができるのは、明白であった。
龍且は、言った。
「策士、策に溺れたり。韓信は、背水の陣を我らに見せて、我らを疑惑に落とそうとした。もし我らがこれを怖れて逃げたならば、我らの負けだ。我らは、もはや退くことは、許されない。」
もし楚軍すら韓信に恐怖して逃げたとなれば、楚は漢に立ち向かう術(すべ)を、全て失うこととなるだろう。敵を怖れて逃げる余裕など、もはや楚にはない。
龍且は、続けた。
「しかし、我らが進んで撃ったならば、韓信は伏兵を用意していることであろう、、、だが!」
龍且は、振り向いて配下の者どもに、言った。
「我らは、趙軍ごときとは違う。いかに背水の陣とて、諸君の力はあの漢軍を、速やかに葬ることができる。ましてや、背後の川は枯れて、戦う者に踏み止まらせる力を出させることすら、できない。いま我が軍が攻め立てれば、敵はたちまちに崩れるのだ。そして、伏兵が我らを囲むまでの時すら与えず、我が騎卒は韓信を葬る力を持っているのだ、、、諸君!」
龍且は、断固たる口調で、全員に訓示した。
「楚軍の強は、勇戦にあり。いま大将の我は、敵の策に対して勇戦を持って応えることに、思い切った。君たちならば、やってくれると信じる。敵の策を、突破するのだ!」
龍且は、呂馬童に命じた。
「これより、我が軍もまた布陣する。お前たち騎兵が先導して、前面の漢軍を蹴散らせ。曹参、灌嬰が訪れる前に、皆殺しにせよ。勝負は、一手先を進んだ方が、勝つ。韓信の包囲策が成る前に、それを打ち砕くのだ!」
大将の決断は、成った。
龍且は、楚軍の楚軍たるゆえんの力を、韓信に対してぶつけることに、決めた。
「彼が亡ぶか、我が亡ぶか、、、しかし、勝利は我らがものだ!」
龍且は、両手を組んで指を鳴らし、みるみる闘志を高まらせた。
総軍に、命令が下った。
楚の兵馬は、直ちに漢軍に向けて、突撃のための布陣を展開した。
楚軍の戦術は、正面への急襲。
江東の騎兵どもを先鋒に立てて、脇目も振らずに、敵の破壊を目指す。
これまで一度として敗れたことがない、無敵の戦術であった。
楚軍は、布陣を終えた。
冬の空は、昼になっても、曇って低い。
呂馬童は、思った。
「たとえ雪が降っても、視界の遮(さえぎ)りになど、ならぬ、、、」
彼はいま、陣の最先鋒にあった。
呂馬童は、漢軍の姿を、数里向こうに見た。
赤旗の列は、曇天の下でも目に鮮やかであった。
彼は、凝視した。
やがて、馬上の将が、再び旗の前に進み出した。
「― 韓信!」
馬上にある彼の華麗な装束は、暗い空など何の関係もなく、ますます目だってやまない。
こうして楚軍が彼の挑発に乗って布陣して、しかし彼はまたも敵前に踊り出した。彼はやはり、自分を囮にする、覚悟であった。
「命を、賭けているのか、韓信、、、!」
呂馬童は、彼の心中を察して、うなった。
「我は彼を、彼は我を、斬れるだろうか?、、、いや、もう戦は、始まっている。」
呂馬童は、それ以上のことを、ここから先考えるわけには、いかなった。間もなく、彼と韓信の戦が、始まる。これが、二人にとって、最大で最後の対決となるだろう。二人の関係は、対決で終わろうとしていた。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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