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二十五 武人ども、輝く(1)

(カテゴリ:国士無双の章

戦国時代以降の戦闘には、すでに儀式が欠けている。

かつて、いにしえの時代には、諸侯が戦をする前には、いろいろなしきたりがあった。戦が貴族の内輪だけで行なわれる、選良同士の争いにすぎなかった頃には、戦場においても礼儀を守る優雅さが、求められていた。
しかし、戦国時代に入ってこのかた、社会そのものが変わった。政治の場ですら、単なる庶民出の馬の骨が、いきなり高位高官に昇る。たとえば漢の組織は、そのような輩で要職が占められている。ましてや、戦場では選良の戦力など、ものの数にもならなくなった。戦の力となるのは、単純な命令だけを教え込まれて敵の首を刈り取る、万単位の歩卒。そして、扱いに熟練が要らず、しかも殺傷力の強大な器械仕掛けの弓である、弩(いしゆみ)の部隊であった。戦国時代は、社会から固定した階層を、失わせてしまった。万事が、数と力をむき出しにぶっつける闘争となった。
不意討ちの夜襲ですら、軍略として許されるこの時代である。両軍相対しての戦闘は、大将が戦機熟したと判断したときに、始められるであろう。
「― 進!」
大将の龍且が、伝令の軍吏たちに向けて、号令した。
伝令の軍吏たちは、馬に乗って、本陣から車の輻(や)のように、軍の各所に広がり、駆け下りていった。
軍は、二段に分かれる。
先鋒は、直ちに進んで、前面の漢軍を討つ。先鋒の主力は、もちろん江東の騎兵たちであった。
龍且は、援兵の斉軍と共に、後方において漢軍の次の動きに、備えた。龍且の本陣からは、今日の戦場が全て見渡すことができた。何が起ろうが、将が命を出すことに、遅滞は起らないだろう。
「進!」
「命は下った!、、、進!」
「行け!、、、漢軍を、屠れっ、同胞よ!」
駆ける軍吏たちの言葉には、大将の命令よりも、いっそう修飾が入っていた。
中原諸国の軍吏たちならば、このようなことはしない。上から降りて来た命令の言葉を、ただ繰り返すだけであろう。なぜならば職務以上のことを行えば、たとえば秦の軍律ならば、処罰される恐れがあるからであった。
だが楚の軍吏どもは、血気に逸って、戦場でいつも職務以上のことを行っていた。彼らを責めるわけには、いかない。これが、楚軍の強さを支える、気概の表れなのだ。
軍吏たちの叫びは、たちまちのうちにもっと大きな絶叫に、掻き消された。
楚軍の全体が、咆哮した。
かつて、中原諸国のわずらいであった、侵略を好む南蛮の国。
この地の民たちは、英雄さえ王に頂くことができれば、いかなる諸侯とてこれを防ぐことが、できなかった。
楚を覇権国となして、春秋五覇の一人に数えられる、楚の荘王。
呉を大陸最強国にまで持ち上げた、闔閭(こうりょ)・夫差(ふさ)の二代の呉王。
戦国四君の一で、天下で富強に並ぶ者なしと評された、春申君。
彼らは、南蛮の歴史に、燦然と輝いている。
そして今、彼らはあの項王を、戴いていた。
前代未聞の大英雄を王として頂く楚国の軍が、中原の兵ごときに、どうして敗れることがありえようか?
「進めよっ、諸君!」
騎兵の一人が、駆けた。
「待てっ、俺が先だ!」
次の一騎の主が、馬腹を蹴り上げた。
一瞬のうちに、全ての騎兵が、土煙を立てて駆け始めた。
歩卒たちも、次々に勇躍して、駆けて行った。
彼らは、弩(いしゆみ)の一斉射撃すら、恐れることがない。
怯まず、敵に向けて駆ける騎卒たちは、不思議にも敵の矢に当ることが少なかった。弩兵の射撃は、正確に狙って撃っているのではない。集団で弾幕の雨を浴びせて、敵を混乱させるところに、その効果があった。ゆえに、怯まず進む楚軍が通り抜けてしまうのには、道理があった。
駆ける騎兵と敵軍との間合いは、巻き取られるように、消えうせて行った。
あと、少し。
もう、間もなく。
次の、瞬間―
楚軍は、一斉に漢軍に斬り付けるであろう。
ここまで、漢軍から何の射撃も浴びせられて来ないことは、不思議であった。
怒号して進む楚兵たちの耳には、届かなかった。
漢将、韓信。
楚軍が向かう漢軍の正面に、赤旗を後ろにして、立ちはだかる。
韓信は、楚兵がまさに進撃を始めた頃、馬上から大声で叫んだ。
「― 退却だ!」
今、命令を発さなければ、すぐに戦場は怒号渦巻く大地と化して、大将の声など、届かなくなる。
韓信は、楚の騎兵が一斉にこちらに向けて駆け始めたのを、見た。
彼は、叫ぶ時を、待った。
一.
二.
三、、、
恐るべき勢いで襲って来るにも関わらず、彼は心中で数えていた。何を、数えていたのか?
やがて、四を心で数え終わって、五に入る瞬間、彼の口が開いた。
「― 退却だ!」
後ろの漢軍は、彼の命令を待っていた。
韓信の声を聞くや否や、全軍が後ろを向いて、河原から川床に向けて、駆け降りた。
今の漢軍が、なすべきことは、川を突っ切って逃げること。
それだけをなせと、韓信は事前に訓示していた。
漢軍は、猛烈な勢いで、逃げ出した。あの楚軍の勢いを目の当りにしては、逃げなければ確実に殺される。踏み止まって戦うなど、狂気の沙汰であった。
川床には、水の流れはほとんどない。彼らは、先日韓信の指揮下で、ここを渡る訓練を受けていた。それで、漢兵たちは迷うこともなく、逃げ出して行った。
韓信は、いまだに河原に、留まっていた。
自軍の兵が後ろで次々に逃げ降りて行くにも関わらず、大将の彼だけは、まだ馬上で動こうともしなかった。まるで、楚軍の標的の役目を買って出ているかの、ようであった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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