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二十五 武人ども、輝く(2)

(カテゴリ:国士無双の章

敵軍の注目を一手に集めた、大将韓信。

楚軍の全てが、彼の首を狙って、突進して来た。
名声を得るとは、このことか。
天下に名を挙げれば、その首の値は、千万金をも越えてゆく。
韓信は、己の名声がこれほどまでに敵を狂奔させることに、改めて驚いていた。
その上、あえて軍の先頭に、身を置いている。
韓信の手の内の手綱が、汗でにじんだ。
「ここまで、死生の境が、迫っていながら―」
彼は、思った。
「不思議なことだ。他人事のように、思えて来る。」
彼は、手綱をぐいと引き上げた。
彼の馬が、一鳴きして、馬首を返した。
それから、後ろに向けて、彼は馬を駆けさせた。
韓信は、陣を捨て、河原から川床に向けて、駆けに駆けた。
その直後、楚の騎兵どもが、漢軍の陣を踏み潰して行った。
逃げた漢軍が立てたままになっていた赤旗は、巻かれて引きちぎられて、馬蹄の下に踏みしだかれた。
川床を韓信は逃げ去り、その後ろを騎兵が追いすがった。
しかし、この間合いでは、やがて掴まえられる。
追いすがる騎兵のほとんど先頭に、呂馬童はいた。
彼は、川床に入った瞬間、思った。
(、、、遠目で見たよりも、砂が柔らかいではないか、、、?)
水が枯れて干上がっている川床ならば、もっと固いはずであった。彼は、これまで馬で何度も渡河する経験を積んで来たので、その感触を知っていた。
呂馬童は、疾駆する中で、自らも素早い思考を、巡らせた。
(これは、先程まで、水が流れていたのだ。しかも、数日前のことではない。ほとんど、昨日の夜のうちまで、ここに水があったのだ、、、なぜだ?)
突撃を命じた龍且にとって、見落としていたことがあった。
目視した濰水(いすい)の川床は、確かに干上がっていた。
兵馬が易々と渡れるほどに、川床の道が開けていた。
しかし、その川床の様子は、つい昨日の夜とは、全く違っていた。
それどころか、先日に斥候が漢軍を確かめたときの川とも、違っていた。実は、斥候が漢軍の渡河を確かめたときには、もっと水があった。その水が、今日明けてから確かめたときには、もう全く水が失せていた。龍且は、その違いに気付くことが、できなかった。
冬に川は枯れるという先入主は、ある地点までは突撃の判断材料として、正しかった。
しかし、その先入主が、ある地点より先には、災いする。
確かに、冬の川の流れは、常よりも少なかった。
しかし、その少ない流れが、水が消え果てるまでに、枯れていたことは―
「― なぜだ!」
呂馬童は、声に出した。
だが、彼が疑問に思う間にも、馬は駆けていた。
彼の目の前に、背を向けて駆け去る馬の主の背が、写った。
真紅の袍(うちかけ)に、黄金の盋(かぶと)。どうやっても、見逃しようがない。
もう、彼に追いつくのは、あとわずかであった。
呂馬童は、背中に向けて、大音声を投げ掛けた。
「―韓信!」
韓信は、旧知の者の声に、反応した。
「おっ、、、呂馬童!」
しかし、今は敵同士。
馬を寄せるわけには、いかない。韓信は、駆け続けた。
呂馬童は、馬の尻を叩いて、さらに急がせた。
彼の周囲の騎兵どもも、同様であった。目の前の将を討てば、この戦は終わる。
怒涛のように追いすがる江東の騎兵どもを背に、韓信もまた馬を必死に走らせた。
しかし、敵うべくもない。
じりじりと、間合いは詰められて行く。
すでに、川床は半ばまで、渡り終えていた。
呂馬童は、目算した。おそらく、対岸の河原に登った地点で、韓信は包囲されることであろう。あと、わずかであった。
呂馬童は、勝負あったと、感じた。
彼は、再び大音声を、前の馬主に向けて張り上げた。
「お前を、斬らなければならないとは、、、」
前を進む韓信もまた、彼に応えて声を張り上げた。走り抜ける後ろなので、呂馬童に聞こえるかどうかは、わからない。それでも、彼は声を挙げた。
「お前を、討たなければならないとは、、、」
間もなく、二人の勝負が付く。
二人は、同時に声を出した。
「― 残念だ!」
頭上の沖天で、この瞬間、雲が切れた。
一筋の光が、地上に降り注いだ。
韓信の被る黄金が、光を反射して、きらりと輝いた。
開戦前は雲低く厚かった空は、やがて快方に向かい、しだいに午後の陽光も差すことであろう。
川では、後続の楚の歩卒たちもまた、漢軍を追って殺到していた。
枯れた流れを目指して、蟻のように向かっていた。
楚軍の栄光を、信じて。
項王の勝利を、信じて。
楚軍は、まだしも幸福なのかもしれない。勝つことに、喜びを見出している。他の諸侯に徴発された兵卒たちでは、彼らのように勝利を喜ぶことができない。
楚軍は、間もなく勝つのであろうか。
それとも、敗れ去るのであろうか。
この瞬間には、いまだ誰も知るべくもない。韓信ですら、自分の計略の結果について、今が過ぎ去った後でしか、知ることができない。

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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