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二十六 見よ、この武略(1)

(カテゴリ:国士無双の章

いま、川のほとりは楚漢の決戦場となって、兵馬が猛烈に駆け抜けている最中であった。

その戦場から川を何里か上流に昇ったところに、川の湾曲点があった。
ここで、濰水(いすい)の川幅は、前後の半分以下に、狭くなっていた。
激戦が行なわれている戦場からこの湾曲点まで、ほんのわずかの距離しかない。だが、川を巻いて立つ丘陵が流れをうまく隠して、戦場からは見ることができない。
川の湾曲点の真上にも、一つの丘が立っていた。
いま、その丘の上に、数人の姿があった。
この丘の上からは、真下の湾曲点だけでなく、下流にある戦場までも、よく見渡すことができた。
丘の上の一人が、眼下の戦場を、つぶさに観察していた。
「まだだ。まだ、早い、、、」
賀安楽は、そうつぶやいた。
つまり、韓信の遠征にずっと付き従っている、もと楚軍の少年兵の小楽のことであった。だがもはや、彼は少年兵ではない。項王に憧れてひたすらに勇戦した時代は、彼の中でとうに過ぎ去った。彼は、項王の戦い方から心を離して、かつて同じ楚軍にいた韓信のもとに身を寄せ、慕うようになった。彼はいま、韓信のために、彼の計略を支援する役目を、買って出ていた。この小楽は、もはや少年ではない。
これまで、韓信の戦いを支え続けていたのは、鄧陵子であった。しかし、鄧陵子は斉との戦の前に、命を落としてしまった。
小楽は、今度の戦で、韓信のために鄧陵子の代わりとなることを、願った。
しかし、彼の望みを聞いた韓信は、すぐに認めなかった。
韓信は、聞いた。
「戦は、全ての兵卒の命を救うことなど、できない。敵の戦力が挫け去るまで、敵軍に打撃を与えなければならないのだ。おそらく、楚軍として現れる兵の中には、お前が知っている者がある― 小楽。それでも、引き受けたいのか。」
小楽は、答えた。
「この小楽は、あなたの戦い方がいちばん正しいと、信じています。私は、この大きな戦で、あなたのために何もせずには、いられないのです。楚軍は、あなたの敵である以上は、倒さなければならない、、、私もまた、逃げずに戦いたいのです。」
しかし韓信は、さらに聞いた。
「いざ引き受けるとなれば、必ず義務を果たさなければならない。もしお前が躊躇(ためら)えば、もっと多くの敵と味方が、戦場で倒れるのだ、、、分かっているのか?」
小楽は、答えた。
「分かって、います―」
韓信は、彼の目を見た。
若々しい目は、確かに信じているかの、ようであった。
だが、人選に巧みな将であれば、それでもこの小楽に決定的な大役を授けることを、避けたであろう。
若い心というものは、純粋で、ゆえに脆(もろ)いものだ。
いざその時となれば、感じやすい心は、揺れ動く。もっと情の枯れた者でなくては、かくも恐ろしい瞬間に、冷静となれない。
だが、しかし―
韓信は、彼を信じる人間を、結局信じた。
韓信は、小楽に向けて、うなずいた。
「よいだろう。私は、人を信じたい。お前を、信じることにしよう。」
彼は、小楽に計略のための大役を、任せることにした。
小楽は、目を輝かせた。
「国士無双のために、働ける、、、こんな嬉しいことは、ありません!」
こうして、小楽は、戦場の向こうの丘に潜む一隊に、加わることとなった。
川の湾曲部には、仕掛けが為されてあった。
韓信は、この地に着いたとき、密かに兵卒たちを動かして、土木作業を起こした。
兵卒たちは、嚢(ふくろ)に砂を詰めて、指示された通りに積んで行った。
たちまち、湾曲部には堰(せき)が、作り出された。
下流の流れは細くなり、水嵩はにわかに低くなった。
「夏の増水時ならば、こんな作業はとてもできない。今の季節だから、水も止められるというものだ。」
韓信は、頭に描いた通りに、水が堰き止められた様子を見て、喜んだ。
彼は、配下に言った。
「― 決戦の日には、この水を全て、堰き止める。」
彼は、軍吏たちに当日の要点だけを、語った。
軍吏たちは、将がどのような全体像を描いているのか、まるで掴めなかった。ただ、当日の手順だけが、将の口から適確に、伝えられて行った。その緻密さと、無駄の無さは、まるで役所での作業を指示しているかのようであった。
そしていま、決戦の日となった。
丘の下の堰は、昨晩のうちに、全て流れが止められていた。
水は満々と湛えられて、堰を切ればたちまちに流れ出るのは、必然であった。
準備は、全て整っていた。
あとは、丘の上から、下で待機している兵たちに、命ずるばかりとなった。
小楽は、戦場を見極めて、丘の下に命令を発する役目を、負わされていた。
小楽は、川を背に陣取った漢軍の前に、一騎の将が踊り出たところを、見た。
言われていた、とおりであった。
「韓子。あれが、韓子だ、、、」
小楽は、見つからないように身を潜めながら、つぶやいた。
この丘も、禿山であった。隠れる樹木とて、ない。やむなく、彼は頂(いただき)にある岩の陰に隠れて、戦場を垣間見ていた。他の兵卒たちは、丘の裏側にじっと潜んでいた。
やがて、向こうの楚軍が、一斉に動き出した。
次に、漢軍が我先に、逃げ出した。
漢軍の将だけは、馬上で留まっていた。彼の目立つ装束は、遠くからでもはっきりと識別できた。
全て、事前に韓信から言われたとおりの、進行であった。
韓信が、馬首を返して、逃げ出した。
川床に向けて逃げる将を、楚の騎兵たちが追いかけて行った。
「楚軍だ。楚の、騎兵たちだ。」
小楽は、独語した。
「あの、中には、、、」
小楽は、いくつかの顔を、思い出した。
彼が戦場でよく知った顔が、あそこにはきっとある。
「― ごめん!」
小楽は、思い切って、それを振り払った。
韓信の馬が、川床を突っ切るのが、見えた。
その後ろから、騎兵たちもまた川床に駆け下りて行く。
小楽は、韓信から言われていた。
韓信の馬が、真ん中を過ぎ去った瞬間に、命を発しろと。
もうすぐ、その瞬間が、やって来る。
追う騎兵には、彼が親しくしていた、呂馬童もいる。
あの先頭が、呂馬童であろうか。
そのとき、小楽は、顔を覆った。
「ああ、、、だめだ!、、、、辛い!、、、辛い!」
彼は、戦場から目をそむけてしまった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章