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二十六 見よ、この武略(2)

(カテゴリ:国士無双の章

小楽は、体が震えてしまった。

韓信も、呂馬童たちも、死に追いやりたくない。
何という、甘い考えであろうか。
もう、戦は始まっているのに。
どちらかが命を失うのは、もう避けられないというのに。
「― ああ!」
しかし、彼はこのとき、目を背けてしまった。
彼はやはり、若過ぎた。
この大役を冷静にやりおおせるには、情があり過ぎた。韓信の人選は、誤りであったか。もう、勝敗を分ける瞬間は、すぐにもやって来て、永久に過ぎ去ってしまう、、、!
そのとき。
丘の上に、一陣の風が、吹き上がった。
小楽は、背中を押されてよろめき、転びそうになりながら、彼が隠れている岩にすがり着いた。
小楽は、岩に張り付いて、顔を上ずらせた。
彼の目の上に、影があった。
川に棲む冬鳥が一羽、飛び立って岩の上に留まっていた。
冬鳥は小楽を怖れず、彼に眼を向けて、一鳴きした。
「― 動!」
まるで、その声は、そう言っているかのように、聞こえてしまった。
小楽は、その小動物と、目を合わせた。
「動!」
不思議にも、その目は、小楽に優しいものに思われた。
小楽は、ぽかんとしながら、目を合わせ続けた。
冬鳥が、首を返した。
まるで、戦場を見ろと、小楽に教えているかのような、仕草であった。
小楽は、誘われたかのように、見下ろした。
韓信が、川を駆け抜けている。
そこに、空から一筋の光が、降りた。
馬上の黄金の盋(かぶと)が、日に当てられて、きらりと輝いた。
彼の横で、また冬鳥が鳴いた。
「動、、、動、、、動。」
小楽が向くと、不思議なことに、首を縦に振って、うなずいた。
それは、ただの偶然であったのかも、しれない。
だがまるで、風も空も生き物も、彼を動かしているかのように、巡っていた。
小楽の頭に、鄧陵子の面影が、浮かび上がった。
彼は、生前に言っていたものだ。
― この宇宙は、鬼神の魂で満たされている。人間というものは、それらに生かされているのだ。
彼は、そのようなことを大真面目で、小楽に言っていた。
小楽は、よく分からなかった。
鄧陵子は、笑いながら、言った。
― だから、人は見えないものに、押されて動いているのだ。自分一人で生きているなどと思うのは、間違いだ。この世の人は、なすべきことをなさねばならぬように、見えないものによって、誘われているのさ。その誘いを、人は受け止めなければならないのだよ。
小楽は、鄧陵子のその言葉を、いま思い浮かべた。彼は、命を落とした鄧陵子の代わりに、韓信のために戦場にいる。躊躇(ためら)うのは、罪あることであった。
再び、丘の上に風が吹いた。
岩の上の冬鳥が、翼を開いて、舞い上がった。
戦場の川に向かって、舞い降りて行く。
もしかしたら、鄧陵子が鬼神と化して、天地と生物を動かしたのかもしれない―
彼は、立ち上がった。
風に支えられながら、岩陰から立ち上がった。
もはや、体を隠そうとも、しなかった。
「― 後で、存分に泣こう!」
できれば生きて欲しいという願いを心の底に敷いて、しかし今は自分の義務を果たさなければ、ならなかった。
彼は、眼下の光景を見た。
合図する瞬間を、待った。
「もうすぐ、、、」
小楽は、駆ける韓信の姿を、目で追った。
その後ろには、騎兵たちが追いすがる。
さらに後方からは、楚の兵卒たちが、川を目指して殺到していた。
小楽は、叫んだ。
「今だ― 揚げろ!」
そう言って、大きく右手を挙げた。
彼の下に待機していた兵卒たちが、彼の合図に呼応した。
赤い漢旗が、高高と掲げられた。
それが、下の湾曲点にいる兵卒たちへの、合図であった。
すでに、兵卒たちは、堰(せき)の線上に、一列に並んでいた。
彼らが、一斉に作業を始めた。
数万個の砂を詰めた嚢が、堰き止めるべき箇所に、計算されて積み上げられていた。
兵卒は、それぞれの地点から、数十個を急いで取り除いた。
砂嚢の欠損したところから、ちょろちょろと水が流れ出した。
兵卒たちは、作業を終えて、直ちに退避した。
嚢は、丸木を立てて、留めてあった。
丸木は、わざと切れやすいように、結わえられてあった。目指す地点に少しの力が加われば、たちまちに倒れる。
兵卒たちがわずかに堰を欠かせただけで、水の流れと流れが、組み合わさり始めた。
組み合わさった流れは、立てた丸木をがたがたと揺らした。
その直後、丸木の支柱は各地で、轟音と共に崩れた。
数万個の砂の嚢は、支えを失って、どっと崩れ落ちた。
その上を、貯められた川の水が、あふれ出して行った。これが、この川の本当の流れであった。
その上に、昨日から堰き止められていた分が増して、流れは川床を抉るように、下流へと奔り抜けていった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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