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二十六 見よ、この武略(3)

(カテゴリ:国士無双の章

戦場―

韓信は、馬を駆けに駆けさせて、ついに川の対岸に駆け上がった。
彼は、そこで馬の足を、止めた。
韓信は、馬の手綱を引いて動かし、川に向き合った。
彼の眼前には、襲い掛かる楚軍の群れ。
川床を、騎兵どもが一列に並んで、走り来る。
敵の兵馬の全てが、彼を目指して集中していた。
「ここまで、、、」
韓信は、目の前の驚くべき勢いの人馬の群れに、まるで他人事のように、感嘆した。
彼は、旧知の姿を見た。
騎兵の先頭を切っているのは、呂馬童であった。
かつて韓信が楚軍にいた頃には、共に項王を支えて秦軍を破った、同士であった。
いま、互いに戦い、間もなく死生を分かつ。
馬を殺到させながら、呂馬童は大喝した。
「観念したか、、、韓信!」
韓信は、無言で彼を見据えた。
呂馬童と、目が合った。
呂馬童は、目を見開いて、韓信に迫る。
韓信は、目をわずかに、曇らせた。
彼は、つぶやいた。
「― さらば!」
このとき、上流の方角から、不気味なうねる音が、人馬の勢いをさらに上回る速度で、寄せ来っていた。

砂嚢の堰を崩し去って、水は下流の川幅いっぱいに、流れ落ちて行った。
堰き止められていた勢いは、逆巻く洪水となった。
戦前に斉の将軍が不審に思って出した意見は、正しかった。
この川は、たとえ冬であっても渡河できるような流れでは、ない。
堰き止めていたから、このように枯れていたのであった。
いま、一時的に留めていた自然の力を解放して、水の流れは幾層倍にもなって、戦場の川床を埋め尽くして行った。
「うおおおおおおおっ、、、!」
「な、なんだ、、、う、う、うわ――っ!」
人と馬が、水が辿り着いたところから、順番に流されて行く。
誰も、踏み止まることなど、できない。
たとえ人馬に敵兵を砕く力があったとしても、自然の力には、敵うべくもない。
川床が水で満たされると共に、軍は消えて行った。
天下を震わせた江東の鉄騎の、最後であった。
項王の挙兵時から従い、項王を支え続けてきた無敵の若者たちもまた、これを最後に滅亡した。
「水っ、、、!」
呂馬童が、押し寄せる水の音に気付いたときには、もう遅かった。
彼の周囲では、騎兵たちに向けて、次々に波が打ち付けられていった。
一騎、一騎と、彼の目の前で、人馬まとめて浮き足立ち、流されて行った。
まさか、馬がここまで簡単に水の流れに巻き上げられて浮かぶとは、不思議な光景であった。
しかし、思いを馳せる時間など、ない。
激流を前に、あるはずが、ない。
高まり渦巻いて走る激流は、いまや呂馬童の頭上にも、叩き付けられようとしていた。
濁った流れが、彼の頭上を越えて、高く高く立ち上がった。
次の瞬間、彼と彼の馬もまた、この流れに飲み込まれて尽きる。
「― 奢り過ぎたか。我々は、、、」
それが、彼の最後の意識であった。
川の流れは、人馬の音などを掻き消して、堰きとめられていた勢いが鎮まるまでの間、しばし誰にも止められることなく、奔り過ぎて行く。
こうして、韓信の計略は、ついに成った。
韓信は、漢軍を一兵も傷付けることなくして、目の前の楚軍を葬り去った。
これほどの計略が、かつてあっただろうか。
川の上に逃げ遂せた漢軍の兵どもは、奇跡を見るかのように、華美な装束に身を固めた大将の姿を、仰ぎ見た。
その韓信は、いまだ馬上にあり、動かない。
彼は、川の流れと、その対岸に、じっと目を向け続けていた。
対岸の向こうでは、楚軍の大将の龍且が、呆然と戦況を見ていた。
彼の目の前で、江東の騎兵が全て流されていった。
後続して駆けていた歩卒たちもまた、突如表れた激流を前にして止まることができず、次々と落ちて流されて行った。
このころ、漢の副将である曹参と灌嬰の別働隊が、動いていた。
彼らは左右から、龍且の本陣を包み込むために、攻め寄せて来た。
龍且の予測どおり、漢軍は伏兵を回り込ませていた。
龍且は、それでも楚軍の武勇を信じて、韓信の計略に当ろうと決断した。
しかし、韓信の計略は、楚軍の武勇を踏み越えてしまった。
韓信は、無敵の楚軍を、完膚無きまでに打ち砕いた。
今や江東兵を失い、計略に完全に陥った龍且に、漢軍に対抗できる術はなかった。
龍且の本陣は、漢軍に包囲された。
「恐るべきかな、韓信、、、!」
龍且は、最後にただそれだけしか言い残すことが、できなかった。
彼は、本陣で自ら首刎ねた。
楚軍は、ことごとく破り去られた。
楚軍の支えを失った斉王もまた、これで亡びる。
漢軍の、完勝であった。
いや―
国士無双韓信の、完全なる勝利であった。

          

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第二章 伏龍の章


           
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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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