«« ”二十六 見よ、この武略(3)” | メインページ | ”二十七 国士無双万歳!(2) ”»»


二十七 国士無双万歳!(1)

(カテゴリ:国士無双の章

午後。
戦の終わった後の川は、再びもとの静かな流れに、落ち着いていた。

空では雲が切れて、降り注ぐ陽光に川面の水が、輝いていた。多くの人馬を流し去った先程の様子とは、似ても似つかない。
韓信は、漢軍の兵卒たちを引き連れて、その河原に立った。
曹参と、灌嬰が戻って来た。
大将の龍且は討たれて、楚軍は消滅した。
両将は、これから進んで斉王を直ちに攻め滅ぼすことを、韓信に進言した。
しかし、韓信は、認めなかった。
彼は、軍吏たちに、指示を出した。
「多くの兵が、川に流されて溺れた。命ある者は、助けるがよい。もう、戦は終わったのだ。次の戦より先に、命を救え。」
両将は、韓信の決断に、従うより他はなかった。いま、この大将は、またしても巨大な功績を挙げた。彼の言葉に逆らう力を、このとき曹参も灌嬰も、持つことができなかった。
向こうから、一団の者が、韓信のもとにやってきた。
斉の、官吏たちであった。
官吏たちは、韓信に深く拝礼して、祝賀の辞を述べた。
「お見事な勝利で、ございました、、、まるで、奇跡を見たようです。」
韓信は、彼らに感謝した。
「諸君らが滞りなく資材を調達してくれたお陰で、この計略を為すことができた。私のにわかな思いつきを、よくぞここまで形にしてくれた。感謝する。」
しかし、彼らは不思議がった。
斉人でもない韓信が、どうしてこの川を用いてあのような計略を、編み出すことができたのであろうか。
韓信は、彼らの疑問に、答えた。
「― 以前、私はこの川に来たことが、あったのだ。」
彼は、言った。
「むかし、秦はたびたび我が郷里の淮陰から、土木の人夫を徴発した。私は徴発されてはるばる斉に向かわされ、この川で人夫として、治水をさせられた。定職にも就かないのらくら者の私にとって、徴発に応じることぐらいが、郷里に払う迷惑料であったよ。」
彼は、上流の丘の向こうを、指差した。
「我ら人夫は、あの川の湾曲するところを堰き止めて、下流を細くした。そうやって、下流の河岸を固めたのさ。ここは、始皇帝が巡幸する秦の馳道(ちどう)が、川を渡るところであった。私は、ここで川を堰き止めて開く作業の一切を、この両の手で覚えていたのだ。」
彼は、両手を開いて官吏たちにかざし、少し笑った。
官吏たちは、国士無双と呼ばれる男の意外な過去を聞いて、驚いて呆れたかのように、嘆息した。
しかし、驚くには値しない。
彼は、天から降って来たのではない。
もとの彼は、淮陰の一庶人にすぎなかった。それが、兵法を学んで軍略を用いる機会に恵まれて、その大才を開かせることとなった。全ては、韓信という一個人の為した業であった。彼に天運はあったとしても、彼じしんは奇跡を起こす力など、持ち合わせていない。
韓信は、言った。
「楚軍とやがて、この川で会戦することになるであろうと、私は読んだ。そう読んだとき、私は過去のことを思い出して、ひらめいたのだ。私は、そのひらめきを、大事にした。私は、この山谷の姿を、知っていた。知っていることは、有利である。将ならば、有利を見れば、そこから計を紡ぎ出せ。私は、計を編んだ。己の全身全霊を尽して、計を、編んだのだ―」
彼は、楚軍の騎兵どもの突撃には、漢兵では勝てないと思った。
それで、濰水(いすい)を堰き止めて開き、楚軍の騎兵どもを押し流すことを、考えた。
そのためには、彼らを川に向かわせて、川の中に誘い込まなければならない。
韓信は、自らを囮にすることを、決意した。
韓信その人が囮となって背水の陣を敷き、楚軍を挑発する。
楚軍は、必ず彼の首を狙って、突撃して来るであろう。
この戦は、きわどい勝負であった。大敵を破るには、命を賭けなければならない。しかし韓信は、計の中に自らを置くことを、躊躇(ためら)わなかった。
計が終わった後の川床には、水が流れていた。
韓信は、川の彼方に、目を向けた。
昔の時代から、ずいぶん遠くに来てしまった。
そして彼の郷里からも、ずいぶんと遠くに、離れてしまった。
彼は、つぶやいた。
「淮陰もまた、川のほとりの城市であった。何とか、生き残っていてほしい―」
彼は、崩されてしまった郷里に、思いを馳せた。
ここまで進んだ後に、何が残っているのだろうか。
彼は、これから先、どうなっていくのであろうか。
今は、何一つ明らかでなかった。
ただ一つの事実は、国士無双の名声が、揺るぎもないものと化したこと。そのことだけは、隠れもなかった。
曹参は、韓信に言葉を掛けることすら、難しいように思われた。
(これほどの武略は、かつて誰も為したことが、ない、、、)
彼は、もはや韓信の武勇の名声が、項王すら越えてしまったように、感じられてしまった。
項王の名声を越えたならば、彼の主君の名声もまた、同じように翳らせてしまうだろう。
曹参は、肌がひりつくような、むず痒い気分であった。
彼の隣の灌嬰もまた、同様であった。
もはや、彼らと韓信は、次元が違う。
漢の臣として、これをどのように対処すれば、よいのであろうか。
彼らは、大勝の後であるのに、迷っていた。
迷っているのは、しかし彼らだけであった。
他の兵や官吏たちは、英雄を仰ぎ見ていた。
彼らは、迷わない。
彼らの仰ぎ見る韓信は、流れる川の彼方を向いて、動かない。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章