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二十七 国士無双万歳!(2)

(カテゴリ:国士無双の章

川の上流の方角から、百人ほどの集団が、行軍して来た。

本日、堰(せき)を切る役目を請け負った、伏兵たちであった。
全員、勝利を喜んで、晴れやかな表情をしていた。
その先頭にあったのは、堰を切る瞬間に指示を見事に与えた、小楽であった。
彼の表情にもまた、笑顔があった。
しかし、それは大将の韓信と、勝利した兵卒たちに見せるために作った、笑顔であった。彼の心中は、周囲の者たちほどに晴れ渡ってはいなかった。
韓信は、彼のもとに戻って来た小楽の働きを、大いにねぎらった。
「― よく、やってくれた。」
彼は、小楽の肩を、力強く叩いた。
小楽は、賞賛をもどかしげに受け取った。
「私はもう少しで、義務を果たし損なうところでした、、、申し訳、ございません。」
韓信は、首を横に振った。
「こうして、結果が出たではないか。お前に任せたのは、正しかった。漢軍の大将として、心より感謝する。」
そう言って、韓信は、彼に頭を下げた。
小楽は、彼に頭を下げられて、あわてて自分も頭を下げた。
周りの兵卒たちが、英雄たちの滑稽な姿を見て、大いに笑った。
小楽は、韓信に言った。
「あなたは、やはり勝った。誰も、敵いませんでした。楚軍も、敵いませんでした―」
小楽は、語りながら、涙がこみ上げて来た。
韓信が栄光を掴んだのと裏腹に、楚軍は彼の計略によって、潰え去った。
他の兵卒たちとは違って、小楽にはそのことが、心の一部を痛ませた。
韓信は、小楽に言った。
「呂馬童に、会ったよ。」
小楽は、言った。
「あなたを、斬り損ねた。」
韓信は、言った。
「彼と最後に向き合ったときの目を、まだ覚えている、、、生きていれば、よいが。」
だが結局、彼はこの後に、見つからなかった。
生死のほどは、ついに韓信たちの、知るところではなかった。
小楽は、いまはもう泣きじゃくっていた。
韓信は、震える小楽の肩を、もう一度叩いた。
「これほどに大きな戦であったのに、我が軍の犠牲は、僅少であった。我らは、それを誇りとするべきだ。」
しかし、小楽は、泣き止まなかった。
その彼を、韓信は両の腕で、しっかと抱きしめた。
「ああ、、、戦は悲しい、、、悲しい!」
韓信は、大きな声で、嘆いた。
戦勝した大将には似つかわしくない、嘆きの声であった。
このとき、軍の後ろから、大きな声が韓信を囲む輪の中に、飛び込んで来た。
「― 国士無双韓信、万歳!」
声の主は、両手を高々と掲げて、ことほぐ万歳の仕草をした。
「国士無双韓信、万歳!韓大王、万歳!」
曹参と灌嬰が、肝がつぶれたような声を、続けて上げた。
「あれは、、、!」
「蒯通っ、、、!」
現れたのは、二人が探し続けていた、策士の蒯通であった。
彼は、斬られることを恐れて、今まで潜伏していた。
だが韓信が大勝を得た今、彼は勇躍として踊り出した。
蒯通は、大いに浮かれた声で、韓信を称えて叫んだ。
「国士無双韓信は、天下の大王であるぞ!皆の者、大王を称えよ!称えよ!」
素っ頓狂な、大声を上げた。
策士の彼に、こんな大声は、何とも似つかわしくない。
だが兵卒たちが、たちまちに応じた。
「国士無双、万歳!」
「大王、万歳!」
「万歳、韓大王!」
「大王!」
「大大王!」
兵卒たちが、爆発するように歓呼した。
勝利した軍は、大王を称える万歳の声に満ちあふれ、いつまでもやまなかった。
声は空に響き、川面も波立つようであった。
総軍の万歳の歓呼が、天下に新しい大王の出現を、約束した。
韓信は、大王となった。
彼は、項王、漢王に並んだ。
韓信は、彼を称える声の嵐の中で、愛用の長剣を突き立てて、林のように立った。
彼は、語らなかった。
語らず、やがて暮れ往く彼方の空を、見詰めた。
空は、もう全く晴れ渡っていた。
曹参と灌嬰は、止まらない歓呼の中で、二人だけ俯(うつむ)いていた。
韓信を大王と呼ぶ不遜は、漢のために、糾さなければならない。
だが、二人とも、顔を上げることができない。
新たに昇った太陽は、彼らにとって、眩(まぶ)しすぎた。
曹参は、唇を噛みながら、拳を握り締めた。
だが、どうすることもできない。
「国士無双、万歳!」
「韓大王、万歳!」
「大王万歳!万歳!、、、万万歳!」
降り注ぐ万歳に押し潰されそうになりながら、曹参が、やっとうめいて言った。
「大王は、、、漢王だ!」
しかし、彼の言葉を聞く者は、この場に誰もいなかった。
韓信のさらなる会心の一戦、人呼んで砂嚢の計。
古今の中国史において、これほどの勝利を掴み取った軍略家は、たとえ四千年の歴史があったとしても、そんなに多くはない。

― 第九章 国士無双の章・完

          

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