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一 斉王に昇る(1)

(カテゴリ:垓下の章

本当のことを言えば、作者はこれをもって、この物語を終わらせてしまいたい。
これから後の歴史は、作者にとって書くに耐えないことが、積み重なって行く。
だが、楚漢の死闘は、まだ最後の部分が残っている。
そして、死闘の後にも、未解決の問題が残り、歴史はそれを収めるべきところに収めていくのである。
致し方ない。最後まで、書くことにしよう。

斉で韓信が楚軍を完璧に葬り去ったことは、項王にとって、もはや取り返しの付かない打撃となることは、必定であった。
項王は、この頃、梁の陳留、外黄、睢陽(すいよう)といった城市の平定を、進めている最中であった。
外黄は数日の間降らなかったので、項王は見せしめのために、城市の住民を阬(あな)にして屠ろうとした。
しかし、項王は思い留まった。
外黄の令(れい)の舎人の子息、というから、地方の官吏にぶら下がって食う舎弟の、片々としたせがれに過ぎない。
その齢十三歳の少年の説得に動かされて、項王は外黄を屠ることを止めた。
彼の中で、何かが動いたのであろうか。
その結果、思いがけずに梁の各城市が、戦わずして次々と、項王に帰順して行った。
怒りに任せて破壊するよりも、殺さず侵さずに統治する道がある。
項王は、ついに道を改めることが、できるのであろうか。
だが、もう遅すぎた。斉で楚軍は呂馬童ら騎兵たちと共に、消え去った。同じ頃漢軍は、中原に出て成皋(せいこう)を抜き、滎陽(けいよう)を攻め立てていた。彼が置き残した曹咎、司馬欣は、成皋でものの見事に漢軍に敗れた。両名は、氾水(しすい)のほとりで、首刎ねて死んだ。
項王は、再び立ち戻って、漢王を襲わなければならない。
しかし、戻ったところで、彼が状況を好転させる機会は、与えられない。
漢軍は、項王が反転して来ることを、中原進出の初めから、計算に入れていた。
漢軍は、反転した項王と戦うこともせず、軍を転進させて、広武山に向かっていった。

漢王は、兵を率いて滎陽を攻めていたが、項王帰るの情報を受け取るや否や、さっさと陣を引き払うことを決断した。
彼にとって、全ては計画通りに、進んでいる。
進んでいる、はずであったが―
軍の本陣から、王の怒りに満ちた声が、響き渡った。
「仮王に立つことを、許してくれだと、、、!彼奴め、ついに邪欲を出しよったか!」
漢王は、斉の韓信から遣わされた使者の提出した上書の内容を聞いて、怒り狂った。
それには、このように書かれてあった。

― 斉は偽詐(いつわり)なりて変多く、反覆の国なり。南は、楚と辺す。仮王となしてこれを鎮めざれば、その勢、定まらず。願わくは仮王となして、便ぜよ。

つまり、斉は難治の国であってしかも楚の隣国であるから、誰か君主を立てなければ、とても治まらない。そこで、統治の便法として、仮王として立つことを認めて欲しい、と言って来たのであった。
韓信としては、これが漢王に対する、致し方のない言い訳であったことだろう。
もはや、彼は一将軍としてあり続けることなど、できない。
彼の巨大な功績が、もうそれを許さなかった。
そこで、あくまでも漢の天下平定の便法として、自分を仮王にしてほしい、と願い出たのであった。苦しい、弁明であった。しかし、韓信は漢王とは勝手に自立する道を、選ぶことができなかった。
だが、聞いた漢王は、激怒した。
「王になる前に、項王を討て!奴が強いのならば、項王を先に討つのが、臣下の義務だろうが!、、、それを、王になるだとぉ?思い上がるな、孺子(こぞう)!」
彼は、韓信からの使者に向けて、ひどい剣幕で、悪態をついた。
使者をここまで罵るのは、漢王にとって尋常ではなかった。
王の右横に、張良子房が、一歩下がって控えていた。
彼は、左の足だけを前に出して、漢王の沓(くつ)を踏み付けた。
漢王は、踏まれた先に、顔を向けた。
張良は、表情を変えず、足に力を込めた。
右足の先をぐいぐいと踏まれて、漢王の怒る顔が、歪んだ。
さらに漢王は、左の足先にも、痛みを感じなければならなかった。
左横の奥に控えていた陳平が、張良に倣って、漢王の左の沓を踏んだ。
両軍師に両足先を踏まれて、漢王は苦痛に顔をしかめた。
張良は、漢王に言った。
「― 怒るのは、そのぐらいで充分でしょうが。」
軍師の王を見る目は、冷ややかな非難の色があった。
漢王は、低い声で、軍師に言った。
「言わずには、おられぬわい、、、だが、ここまでにしよう。」
漢王は悪態を、ようやく止めた。
陳平が、漢王の耳に何かを囁いた。
漢王は、ふんと鼻を鳴らして、それから使者に向き直った。
彼は、使者を罵って言った。
「おい― 孺子に、伝えるがよい!」
軍師たちが、両の足先を、また踏みつけた。
漢王は、踏まれて痛がり、言葉を濁した。
「いてて。分かった、分かった、、、」
それから、彼は声色を変えて、今度は荘重な調子で申し渡した。
「― 相国韓信に、伝えるがよい。大丈夫たる者が、諸侯を略定したのだ。その功績があれば、真の王となるのが、当然ではないか。仮の王などと言って、余の承認を願い出る必要など、一切なし。遠慮は、無用!」
そう言って、彼は使者に、呵呵と笑った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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