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一 斉王に昇る(2)

(カテゴリ:垓下の章

漢王の本陣では、諸将と軍師たちが、広武山以降の方針について、喧喧(けんけん)と議論を戦わせていた。

ある軍師が、漢王に申し上げた。
「楚はすでに斉で敗れ、南からは黥布がひたひたと、楚地を侵略しているところです。項王は天下に頼る諸侯すらなく、漢楚の決戦は、いま最後の段階に到りました。いま主上が広武山に到れば、項王もまた広武山に駆け付けて、対峙せざるをえなくなるでしょう。かれを撃滅する機会は、間近に迫りました。主上は広武山からよろしく諸侯に号令を掛けて、天下総軍をもって項王を包囲殲滅するに、如くはありません―」
発言した軍師は、明快に説き伏せた。
天下平定が近いことを予感させる彼の献策は、居並ぶ面々の気分を明るくさせた。
しかし、同席していた陳平は、少しも表情を変えなかった。
「お前は、どう思うか?」
漢王は、陳平に聞いた。
陳平は、答えた。
「否。決戦など、もっての他、、、」
彼は、頬を掻いた。
「この対峙の落とし所は― 和睦です。」
陳平は、素っ気無く言った。
出席している者どもは、彼の力弱い発言を聞いて、一同揃って鼻白んだ。
漢王だけが、淡々と聞いた。
「小才子、なぜ和睦であるか?」
そう言って、漢王は顎をしゃくって、一同を指した。
「― 分かるように、説明せい。俺にも、こいつらにも。」
陳平は、主君と同様に、淡々と答えた。
「いま、楚は国家の根幹から、崩れ去ろうとしています。前線では兵を揃えることができず、戦を続けさせるための食の供給は滞り、民の項王への信任は、地に落ちています。項王がいまだに覇王であるのは、前線で軍を叱咤し、野にあって敵を打ち砕くため。その武勇と、恐怖だけが、かれを覇王として生き長らえさせているのです。いま、かれに武勇の機会を与えるなどは、せっかく死にかけている虎の牙を、使わせるようなものです。広武山で対峙し続けておれば、やがて虎は瀕死となりましょう。かれの軍は溶け去り、領地は全て背き、かれは身を置く場所とてなくなるのです。この対峙は、項王をそこまで追い詰めるための、準備と見なさなければならない。弱り切ったかれと和睦すれば、後は機を見てとどめを差すことも、容易となるでしょう。虎を殺すためには、時間を掛けなければならないのです。」
漢王は、陳平が言い終わった後に、付け加えた。
「、、、そうだな。」
漢王は、陳平の進言を、取り上げた。
こうして、広武山での方針は、ひたすらな持久対峙と決まった。

軍議の後で、漢王は陳平を近くに呼んだ。
小才子と軽んじて呼ぶが、漢王は陳平の智恵を、手放すことができなかった。
漢王は、陳平に聞いた。
「項王を討つ方針は、あれでよい。もう一つの、こと―」
陳平は、漢王の言葉の、後を継いだ。
「韓信を、、、これからどう扱うべきか。」
漢王は、床机(しょうぎ)に肱をもたれかけさせて、言った。
「あいつは、恐ろしい奴だ。」
陳平は、言った。
「いかにも。彼の軍略の才は、歴史始まって以来の、絶頂です。」
漢王は、言った。
「俺は、そのような奴と、同じ時代に生きてしまったか。項王といい、大変なものをこの目に見せてもらえるわい。やれやれ、、、」
漢王は、そう言って、ぷいと上を向いた。
陳平は、語気を強めた。
「― 韓信を、引き止めなければなりません。何としても!」
韓信が斉でまた伝説を作り、陳平の恐れていたことが、起ってしまった。
韓信の名声は、漢の枠をはみ出そうとしている。
韓信がこのまま自立してしまったら、いま圧倒的優勢にある漢の勢力が、韓信に吸い取られ兼ねない。そうなれば、漢の勝利は、画餅に終わるであろう。
陳平は、漢王に言った。
「漢の天下取りの最後の試練は、彼を引き止めることができるかどうかに、掛かっています。そのためには、手段も体面も選ばぬお覚悟をなされませ、、、大王!」
陳平の言葉は、先程の軍議の時よりも、ずっと真剣そのものであった。
そんな陳平を、漢王は楽々とした姿勢のままで、横目でちらと眺めた。
彼は、言った。
「あいつは、扱い易い奴だ。」
漢王は、ちっちっと、小さく舌を鳴らした。
歯の奥に、食った醋(す)漬けの瓜の種が一個、残っていた。
漢王は、種を舌で弄んで、それから勢いよく口の外に、弾き出した。
彼は、陳平の方を向いて、言った。
「あいつは、軍略はすごいが、中身は市井にいる頃のままだ。ああいう阿哥(にいちゃん)を丸め込む術は、俺の得意とするところ。曹参、灌嬰の二人には、心を尽して阿哥に仕えるように、言い含めよう。俺からも、いくらでも頭を下げてやるさ。素直な奴は、おだて上げるに限る。少しの間だけの、辛抱さ―」
漢王は、くっくっと笑った。
陳平は、深く土下座して、言った。
「大王。この臣が、何としてでも漢を勝利させます。それまで辛いでしょうが、何とぞ、何とぞ、、、」
震える陳平に対して、漢王は言った。
「もとより、俺に恥も体面もないわい。だから、勝つのは俺だ!」
漢王は、わっはははははと大笑した。
陳平は頭を下げながら、この君主でよかったと、心底から思った。

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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