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二 張子房(1)

(カテゴリ:垓下の章

張良子房は、もと韓の宰相家の、子息として生を受けた。

韓が始皇帝によって亡ぼされたとき、彼の家も秦によって、位を失った。
以来、彼は始皇帝に復讐するために、故国を離れて流浪の旅に出た。博浪沙で始皇帝を襲撃し、そしてあと一歩で殺し損ねたことは、虚弱で優しい彼の奥底に眠る執念が、どれほどのものであったかを示して、余り有った。旅の中途で弟が死んだが、張良は彼の葬式すらもせずじまいであった。
今、漢軍は広武山で、項王と最後の持久の構えに入ろうとしていた。
現在の張良は、漢軍の軍師である。
始皇帝が死に、秦が滅亡した後も、漢王に仕え続けている。
天下平定の、ためであった。
その彼は、だが今、しばし漢王のもとを離れていた。
彼は、韓の自分の郷里に戻って、弟の位牌を自家の宗廟に納める旅に出ていた。
張良は、長い年月を経たにも関わらず、宗廟がよく残されていたことに、深い感銘を受けた。
彼は、共に連れ立って来た、陳麗花に言った。
「誰かは知らぬが、人々が維持してくれていたのだ。この、乱世の時代に―」
彼はそう言って、納めた弟の位牌に向けて、合掌した。
陳麗花は、彼の側にあって、語らず莞爾(にこり)とした。
彼女は、宰相家に長らく使用人として仕えていた、老僕の娘であった。今はすでに亡き父と共に、これまでずっとこの公子に寄り添って、彼を支えて、生きて来た。韓が亡んだとき、彼女はまだ赤子であった。その彼女は、もう女としての若さの、最後の歳に差し掛かるまでに、歳を過ごしていた。
麗花は、言った。
「あなた様がこの韓を去ってから、早や二十余年。宰相家の遺徳は、まだ残されていたのですね。」
張良は、嘆息した。
「ああ、、、そんなにも、年月が過ぎたのか。人の世は、何もかもが変わって―」
彼はうつむいて、弟の位牌を眺めた。
「― 何も、変わっていない。」
秦を倒すために全てを賭けた、彼の青春時代は、終わった。
終わった後、天下は結局のところ、再び統一に向かおうとしている。
自分の生は、何のためにあったのであろうか。
多くの人々は、何のために死んでいったのであろうか。
張良はしゃがみ込み、早春の気を受けて再び色付き始めた草の穂を手に摘んで、ぐるりと円を描いた。
「結局、元のところに戻っていく。この後に来る世界は、秦の繰り返しとなる。そして、その世界は、今度こそ長々と、続いて行くことであろう。」
張良は、ぐるりぐるりと、手先の穂で円を描き続けた。
彼の表情は、冴えなかった。
最近は体の調子が、ずいぶんと楽になった。ひょっとしたら、もうしばらく生き延びられるかもしれないと、思うようになった。しかし、彼の心中は、以前よりかえって曇るようになった。
麗花が、主人の姿を見て、言った。
「これから来る世界が、また秦のように統一される。もしそうならば、居場所がなくなる者が、必ずいます。項王は、亡びるでしょう。」
張良は、彼女に答えた。
「そうだ。項王は、もうこの世が必要としていない。だから、消え去る運命にある。」
麗花は、言った。
「そして、まだ他にも―」
張良は、立ち上がった。
彼は、麗花の方を向くことなく、つぶやいた。
「私には、この先の行く末が、見えてしまう、、、それが、悲しくてならない。」
麗花は、彼に言った。
「、、、韓子は、亡びるのでしょうか。」
張良は、このとき彼女の方に、向き直った。
彼は、彼女に問うた。
「麗花― 私は、韓子のもとに走るべきで、あろうか?」
彼の目は、真剣であった。
麗花は、その問いに、しばし答えられなかった。
張良は、彼女の戸惑いを見て、莞爾(にこり)とした。
彼は、言った。
「君は、聡明な女だ。君の戸惑いが、全てを表している。韓子は、決して天下を取れない。彼は、漢王のごとき王朝を開く器では、ない。私が彼のもとに走るときは、彼と共に亡びることを、決意したときなのだ。」
麗花は、言った。
「、、、彼が亡びずに済む道は、ないのでしょうか?」
張良は、言った。
「彼は、君主となってしまった。今や彼に期待する者たちが、彼の手足を縛っている。君主となることは、あまりにも危ない道なのだ。」
彼は、それでも韓信を説得しようと、密かに心に決めていた。
漢王のために天下を明け渡すことが、韓信にとって天下と自らを救う、ただ一つの道であった。
張良は、言った。
「彼は、大いなる名声を得た。かつて共に学んだ私にとって、それが嬉しくてならない。彼は、勝利したのだ。この世に生を受けて、自らの命を燃やして、輝いた。だが、そのことが、そのことが―」
彼は、瞑目した。
「名声と引き換えに、彼の命は危くなった。これから後の人生で、彼が名声を捨てて、生き長らえていけるだろうか。名声を捨てて命を拾うことに、何の意味があるだろうか?」
張良は、見通せるがゆえに、悲しくてならなかった。
彼は、言った。
「私は、彼のもとに走ることなど、できない。それは、天下の苦痛を不必要に長引かせる、だけのことだ。私に、そのようなことはできない。」
張良は、目を開けた。
瞼には、涙がにじんでいた。
「いっそ朽ちて、しまいたい。それが、私の望みだ、、、」
麗花は、主人に駆け寄った。
「公子―!」
彼女は、彼の胸に飛び込んでいった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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