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二 張子房(2)

(カテゴリ:垓下の章

広武山に入った漢王のもとに、張良が戻って来た。

彼は、漢王から、さっそく召し出された。
御前に進んだ張良に、漢王は言った。
「俺がここに籠ったので、案の定、項王もやって来た。子房も、見たであろう。鴻溝(こうこう)を挟んで、俺とあいつの、最後の大舞台さ―」
漢王は、何やらうきうきとした様子で、語っていた。
張良は、言った。
「見たところ、楚軍もまた、対岸で城を築き始めている模様です。」
広武山と呼ばれる丘陵は、運河の鴻溝をもって、東西二つに切り裂かれている。
その西側に、漢王は城を築いて、留まっていた。後背は中原から関中に続き、兵馬も糧食も滞りなく豊富に整う。この漢王城は、項王を釣るための城であった。漢王は、すでに得た圧倒的な優位を生かして、やがて項王を干上がらせるのが、狙いであった。
一方の項王は、漢王が城に籠ったのを知って、彼もまた直ちに、寄せて来た。
彼は攻めようとしたが、あまりに守りが堅く、どうにもならない。
項王は、為す術(すべ)を持たなかった。
やがて―
鴻溝の対岸で、城を築く工事が始まったのが、漢王城から眺められるようになった。
項王は、漢王と対を為すがごとく、広武山の東側に築城を命じた。
兵卒と民を動員して、城の姿は日を経るごとに、完成されていった。
「奴は、分かっている。これが、最後の対峙だということを。何とも、見事な男じゃないか、、、!」
漢王は、とても嬉しそうに、張良に語った。
漢王城に対する、覇王城。
天下を分ける、龍と虎。
項王は、この広武山を、一つの舞台にしようと欲していた。
どちらかが、いずれは亡びなければならない。
必ず訪れる運命を衆目に明らかにするために、項王は漢王との対峙を、一つの舞台にした。
張良は、感想を述べた。
「まことに、彼らしい。まことに項王らしい、詩心と申すべきでありましょうか―」
御前には、軍師陳平もまた、同席していた。
陳平は、詩心などに興味はなかった。
彼は、漢王が項王の挑発を嬉しがっている様子に、苦い顔をしていた。
彼は、わざと冷ややかな口調をして、言葉を挟んだ。
「大王、くれぐれも彼奴の挑発に、乗ってはなりませんよ。この対峙は、ただの戦略です。興奮する価値すら、ありません。」
しかし、その陳平の言に対して、漢王は彼を横目でちらと見て、言った。
「― お前は、それしか言えない奴だ。」
陳平は、漢王の言葉に、いささかむっとした。
漢王は、諧謔を込めて、彼に言った。
「それが、お前の仕事だ。言い続けるが、よいわ。」
陳平は、わずかに鼻を鳴らして、黙り込んだ。
彼と入れ替わりに、張良が漢王に聞いた。
「斉王への正使は、もうお送りになられましたか?」
漢王は、答えた。
「まだだ。」
漢王は、韓信が斉王として立つことを許す旨を、すでに返答していた。
曹参、灌嬰の両名は、漢と斉に両属する形で、韓信の配下に留まることとなった。
韓信を漢の側に引き止めるために、漢からの正使の人選は、漢王が最も気遣わなければならないことであった。
張良は、言った。
「― ならばこの張子房が、漢の正使として、斉に参りましょう。斉王に会見して、大王の意向を伝えて参ります。」
漢王は、彼の意外な申し出に、驚いた。
陳平の目が、にわかに鋭くなった。
漢王は、張良に聞いた。
「俺の意向と、お前は言うが、、、分かっているのだろうな?」
張良は、答えた。
「斉王は、漢王の最大の同盟者。必ず力を併せて、天下平定のために、項王を討つ。それが、大王のご意向です―」
今の韓信に、漢王がそれ以上のことを、言えるはずもない。
張良の言葉は、全く正しかった。
張良は、言った。
「きっと斉では、漢のことを必ずしも信頼していない勢力が、いることでしょう。この張子房は、斉王との旧知の間柄です。臣ならば、斉王に親しく大王のお言葉を伝えることが、できましょう。どうか余人ならず、この臣に、お任せください。」
彼はそう言って、平伏した。
陳平が、口を挟もうとした。
「しばらく、お待ちを―!」
漢王は、しかし彼の言葉を、遮った。
「― しばし、黙るがよい。」
漢王は、平伏する張良に対して、言った。
「子房、顔を上げよ。」
「はい。」
張良は、顔を上げて、漢王と面した。
漢王は、言った。
「お前は、真っ直ぐな人間だ。そのようなお前が、俺などに附いている。それは、天下平定のためだ。お前ほどに、私心のない人間を、俺は知らない。」
漢王の、正直な感想であった。
彼は、言った。
「斉に、行くがよい。行って、韓信にお前の信じる天下平定の道を、言うがよい。もし戻って来なければ、敵味方だ。だが― お前は戻って来るだろう。」
漢王は、邪気のない笑顔を、張良に向けた。
張良は、改めて、深く平伏した。
漢王は、爆発するように大笑した。
「さてと、、、これからしばらく、城籠りだ。力を、貯えんとな!」
彼は、そう言って席を立った。
足は、早くも奥にしつらえた後宮に、向って行った。彼にとっての快活な気を養う場所が、そこにあった。
王が去った後で、陳平はいまだに不信の表情を、張良に向けていた。
張良は、彼と視線を合わせて、言った。
「私が、韓信のもとに走ると、君は思うのか?」
陳平は、答えた。
「思わずに、いられますか。」
張良は、莞爾(にこり)として、彼に言った。
「私が、漢王を見切って捨てると判断したならば、君はもうとっくに韓信に乗り換えているはずだ。そうだろう?」
「――。」
陳平は、言葉を継ぐことが、できなかった。
張良は、彼に言った。
「心配するな。私は、天下のために、なすべきことを為してくる。」
彼の表情には、漢王が言った通りに、私心を見ることができない。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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