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三 君主と為りて(1)

(カテゴリ:垓下の章

斉都の臨淄(りんし)は、大都会であった。

最近、国の主が交替したが、この都は恐れて騒ぎもしなければ、巷に喜ぶ様子も見えない。国主の交替などは、国家の興亡としてよくあることだと、この擦(す)れた都会人たちは、まるで高をくくっているかのようであった。
もとの斉王田廣は、すでに高密で討ち取られて、地上から消えた。
代わりに彼の叔父の田横が逃亡先で即位を宣言したが、韓信が派遣した灌嬰の兵によって、あっけなく敗れ去った。田横は斉での居場所を失い、何と盗賊の彭越に庇護を求めて、落ち延びて行った。
今や韓信は、あまねく斉地を平定した。彼の武勇は、旧勢力を縮み上がらせて、歯向かう声はみる間に小さくなり、やがて聞こえなくなった。韓信は、名実ともに、斉国の君主となった。
斉の朝廷は、儒家の影響が、強く支配していた。
いったん秦によって潰された斉国が復興したとき、朝廷は以前にも増して、儒家流の儀礼を重んじるようになった。朝廷の百官に染み通っていた秦への反発が、斉の伝統の復興を強く念じさせた。結果として、復興された朝廷は、彼らが伝統と信じる儀式とか礼儀作法が、昔の時代よりもずっと誇張されたものに変わっていた。
韓信は、斉王として、宮城の朝廷にあった。
彼は、百官が毎日毎朝演じる、あまりに煩瑣な儀式次第に、辟易していた。もとより、君主の彼は、儀礼の詳細などをいちいち覚えておく必要など、ない。儒家の儀礼においては、体を動かすのは、臣下どもの役目である。君主は、中心にあって動かず、無為と化して君臨する。だから、韓信じしんは何もする必要が、なかった。
しかし、韓信は王座の席にあって、席の下がむずがゆい気分に、襲われっぱなしであった。
(何という、大掛かりな無駄であろうか、、、)
韓信は、そのように思わずにいられなかった。
(国というのは、このようなものなのか。家臣が頭を下げるための儀式に、巨大な精力を費やす。斉一国でここまで大仰なのだから、天下を併呑した秦の朝廷などは、あまりに多くの人間が、あまりに多くの無意味な行動を、続けていたのだろう、、、)
韓信は、大国の仕組みが、ようやく分かった気分になった。
(これならば、君主は確かに、何もしなくてよい。私事で己の快楽だけ求めて、公事では座っていればよいのか、、、)
この世の誰もが、君主の座に着きたがること。
そして、君主となった者どもが、己のために民を搾り上げて、公のために何の義務も果たさずに許される、理由。
韓信は、それらのことが、君主の座にあって理解できた。
その理由が、彼の眼前で演じられる、儀式であった。
儀式は、君主の下にいる人間たちを、機械の部品に変えてしまう装置であった。巨大な国は、こうして君主の能力など必要とせず、一つの機械として動いて行く。
韓信は、巨大な機械の所有者となって、しかし安心できなかった。
(この斉国は、私が思っていた以上に、潜在力がある。この国の動向は、天下を左右するだろう、、、)
韓信は、ようやく朝廷から解放されて、自邸に戻った。
この自邸は、以前斉王が用いていた。ここも滑稽なほどに、大きな宮殿であった。
蒯通が、拝礼して出迎えた。
彼は、斉王に昇った韓信のもとに、再び大手を振って立ち戻った。もう、誰も彼を斬ることはできない。蒯通は、安心して斉王の側近に侍るようになった。
蒯通は、韓信に言った。
「大王。今後が、難しくなりました。」
韓信は、彼の言葉を、不審に思った。
「蒯通、何が難しいのか、、、もう田横は、再起できない。」
蒯通は、言った。
「田横ごとき、すでに大王にとって、飛ぶ蝿の憂い程にすらなりません。難しいのは、斉の今後のことです。」
蒯通は、思った。
(黒燕めが。仕損ねたのか、、、)
漢王は、まだ生きている。
漢王の側に侍る趙黒燕は、韓信が立ったとき、彼を枕席で殺すはずであった。
だが、いまだに漢王は死なず、いま広武山に進んでいた。
さすがに、漢王であった。
己の命をそう易々と危険にさらす不手際は、しなかった。
韓信は、蒯通の心中など気にしないかのように、言った。
「曹参、灌嬰に命じた辺境の平定は、あらかた済んだ。難しいことと言えば、彼らに預けている斉軍を、今後どのように動かすかだ。項王はいま広武山で漢王と対峙して、動けない。今のうちに、楚の後背を平らげておくべきだろうか。否。これから夏に向けて、戦役は民の仕事を妨げることになろう。民の不幸とならぬように、しばらく戦は謹まなくてはならない―」
蒯通は、しゃべり続ける韓信に、いらだって言った。
「将軍のように語られるのは、もうやめたまえ!あなたは、君主なのですぞ。多くの者が、あなたに期待しているのです、、、!」
蒯通は、韓信が君主となった事実を受け止めていないと、感じ取った。
それでは、困るのだ。
もう韓信は、漢王の制止を振り切って進み、斉を掴んだのだ。掴んだ以上は、その重みを受け止めなければならない。
蒯通は、言った。
「斉は、漢でも楚でもないのです。お忘れになったのか。黒燕が、あなたに申したことを。黒燕は、あなたに項王と漢王に並び立つことを、望んだのです。そして、あなたはいま、両者に並び立って、、、!」
しかし、韓信は言った。
「― 私は、己のために国を弄ぶことなど、できない。許せ。」
彼はそういって、淋しげに微笑んだ。
韓信は、黒燕のことを思った。
(黒燕、、、私を、怒るだろうか。)
彼は、己を裏切ることなど、できなかった。
それを、彼女は不満に思うであろうか。
韓信は、自分が進んでいる道について、彼女に聞いてみたい心地であった。しかし、残念だが、もう聞くことはできないだろう、、、

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章