«« ”三 君主と為りて(1)” | メインページ | ”四 皇帝の条件(1) ”»»


三 君主と為りて(2)

(カテゴリ:垓下の章

疲弊した国を、立て直さなければならない。

韓信は、都の官吏たちを召し出して、彼らに内政の案を諮問した。
「― これは、儒家の法を学んだ臣の、愚見でございますが―」
高官の一人が、えへんと一つ咳をして、説を述べた。
「郷挙里選の法を、敷くべきであると思われます。」
韓信は、耳慣れない用語について、聞いた。
「郷挙里選、とは?」
高官は、答えた。
「国には、大小数え切れぬほどの都邑あり。それぞれが郷里を成し、父老を頭に戴いて自ら治めております。それらの郷里から、孝にして廉なる子弟を選ばせしめ、官界に推挙せしめるのです。こうして郷里から、あまねく孝廉を朝廷に集めます。朝廷はよき人材を得て活力を増し、郷里は中央と繋がりを得て忠義の心を持つでしょう。郷挙里選の法は、国と民の双方にとって、喜ばしい結果を産むに違いありません。田氏の同族支配を一掃するために、よろしくこの策を取りたまえ、大王。」
儒家の説らしく、奇麗な建前に終始した意見であったが、その政治的効果は大きい。
郷里の都邑は、朝廷の威光が届かない、別世界である。彼らは太古から自分たちの生活(なりわい)を連綿として続け、朝廷のことなど我らは知らずというのが、本音であった。それを秦の始皇帝は、官と法の力によって、無理矢理に郷里を国家に従わせようとした。始皇帝の法はあまりに性急に過ぎ、ゆえに彼の死後反乱が起こることを避けられなかったが、しかしその意図は、正しい所を突いていたと言わざるをえない。郷挙里選とは、朝廷と郷里を人材によって結び付け、国の力を朝廷のもとに集中させるための、始皇帝のやり方よりもっと洗練された統治の法であった。
韓信は、献策を喜んだ。
「確かに、よい策だ。ぜひとも、進めよう。」
この意見を述べた高官ばかりでなく、朝廷には高い識見を持った人物や、面白い着想を持った異才などが、掘れば見つかるがごとくに、大勢いた。韓信は、君主として、彼らの力をどしどし用いたいと思った。無為に座しているなどは、とても彼の心が望むところではなかった。
韓信は、即位してからこのかた、官吏から意見を聴いたり、都を視察したりして、あえて日々を忙しく過ごしていた。
「間もなく、戦は終わる。戦さえ、終われば、、、」
彼は、黄蓋(こうがい)を上にかざし立て、四頭の馬に引かせた王の車に乗りながら、独り思いにふけった。今日の彼も、斉都の巷や市場を視察するための、外出であった。
「、、、きっと、憂いもなくなるのだ。」
彼は、独語した。
彼を助ける小楽は、淮陰の実情を確かめるために、再び楚に赴いていた。
いまだ、戻って来ない。
韓信は、いま斉で独りであった。
独りで、君主となっている。
「ついに私は、王なんかになってしまったか―」
韓信は、淮陰で林媼(ばあ)さんに飯を食わせてもらった頃のことを、思い出した。
あの頃、無為徒食であった彼が、とうとう国王となった。
灌漑よりも、淋しさが彼の心に先に立った。
自分は王となって、他の全てを置いて行ってしまったような、気分であった。
しかし、斉王の彼の地位は、いまだ天下に定まったものではない。
楚漢は、戦い続けている。斉一国が、戦の外にいることは許されない。
韓信は、戦がなくなることを念じながら、戦の後にどうなるかまで、思いを馳せなかった。それは、危い。蒯通は、最も危いことだと、彼に警告を続けている。
しかし―
いつしか、韓信は馬車の座席で、一眠りしていた。日々精を出して働いている疲れが、陽光の柔らかい温かさに誘われて、体に回った。
彼は、目を覚ました。
「ああ、、、眠っていた。」
心地良い香りが、彼の鼻腔をくすぐった。
薫香のつんとした刺激が、目覚めを快くした。
韓信は、ぎょっとして横を向いた。
座席の隣に、女がいつの間にかちょこなんと座っていた。
韓信は、驚きのあまり飛び上がりそうになり、車の屋根に気付いて肩をすぼめた。
彼は、裏返った声を漏らした。
「、、、黒燕!」
いつの間にか彼の隣に座っていたのは、趙黒燕であった。
どうやって、彼の隣に座ったのか?いや、どうやって、漢王のもとから抜け出して、ここにやって来たのか?
黒燕は、挿す陽光に横顔を照らされて、にこにことしながら韓信に答えた。
「ふふ。抜け出すぐらいなんか、簡単さ。私は、どこにでも行くことができる。この世の全ての君主たちの、懐にまでも。」
彼女の微笑は、以前と何も変わっていなかった。
このうんと若い生物は、偉そうに王座に座り込む君主どもとは、生物としての種から違うようであった。
黒燕は、韓信に謝した。
「劉邦を殺すことは、できなかった― ごめんね。」
漢王は、彼女といえども命を取ることが、できなかった。
それで、韓信が栄光を掴んだことを知ったとき、彼女はむしろ彼のもとに舞い戻りたいと、願った。
黒燕は、言った。
「だけど、劉邦をすぐ近くで見られたのは、悪くない体験だったさ。私は、これでこの世の覇王どもを、全て近くで見た。始皇帝は、つまらない阿公(じいちゃん)だった。項羽は綺麗だけど、気が狂っていた。それに比べれば、劉邦は、、、悪くない男だよ。女に対する男として、だけならばね。これが、私の得た体験だ。へへへ。」
黒燕は、意地悪く笑った。
「― 悔しいか?」
彼女は、呆れた顔をした韓信に、巫戯(ふざ)けて聞いた。
韓信は、ぶっきらぼうに答えた。
「、、、言って、どうなる。」
馬車は、韓信が眠り込む前と変わらず、がたがたと都の大道を揺られて、進んで行った。どうやら前の御者にすら、黒燕の侵入は気付かれていないようであった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章