宮城に伴われて入った黒燕は、わざとしているかのように、はしゃいでいた。
「ははは、すごいね。夥信、夥信!、、、あんたは、夥信だ!」
韓信は、苦笑いした。
「、、、陳勝か。」
かつて、雇われ農夫の陳勝が、反秦の乱の口火を切った。
彼の蜂起は時を得てにわかに成功し、陳勝は王に即位して、ほんの一時だけの栄華を得た。世の人は、秦末に湧き出た彼のようなにわか出世した者どもを蔑んで、「夥渉」と呼んだ。「夥」は、成り上がった王の、夥(おびただし)くて豪勢な生活のこと。「渉」は、陳勝の本名であった。
二人はいま、都が一望できる高楼の上にあった。
黒燕は、欄干に寄り掛かって、韓信が手に入れた国家の夥しき風景を背に、韓信と向き合っていた。
彼女は、韓信に言った。
「― まさか、これで満足だなんて、思っていないでしょうね?」
韓信は、言った。
「満足も、何もない。私は、王になったことなど、喜んでいるわけではない。」
黒燕は、くすりと笑った。
「なら、及第だ。」
韓信は、聞いた。
「及第とは、何だ。」
黒燕は、言った。
「時を得た者が、栄華を得るのは当たり前のこと。凡人は、それに喜ぶ。でも喜んだ先には、必ず転落が待っている。なぜなら時は、移ろうものだから。落ちないためには、栄華を栄華と思わないぐらいの傲慢さが、必要だ。今のあなたは、傲慢だよ。だから、王としてとりあえずは、及第なのさ。」
傲慢と言われて、韓信は面食らい、妙な表情をしてしまった。
黒燕は、くすくすと笑った。
彼女は、横目で階下に広がる都城を、眺めた。
いったい何千軒の家が、あるのだろう。
牛に馬に、羊に狗。売り物や荷役に使われる動物たちの声が、あちらこちらの街路から、聞こえてくる。
その街路を所狭しと往来する、車に、兵に、男に、女。
黒燕は、ため息と共に、言った。
「ぜんぶ、あんたのものだ。王っていうのは、、、」
韓信は、言った。
「こんなものは、預かりものだ。いつだって、返してもよい。」
黒燕は、韓信に向き直って、言った。
「― 返しては、だめだよ。」
黒燕の表情は、韓信を責めるように、真剣になった。
韓信は、言った。
「ならば、どこに向かえばよいのか、私は。」
黒燕は、言った。
「王から進んで、皇帝になるんだ、、、韓信が、天子となるんだ。天子となって、天下を統一するんだよ。」
韓信は、言葉を返さなかった。
黒燕は、言った。
「いま、趙にある我が義父張耳は、すでに瀕死の床に就いています。義父の命はやがて尽きて、太子の張敖が即位するでしょう。張敖は意志薄弱で劉邦に踏み敷かれていますが、密かにあなたのことを慕っています。あなたが立ち上がれば、あなたさえ立ち上がれば、趙はあなたに呼応することが、できるのよ。あなたは、決して劉邦に負けはしない、、、」
黒燕は、もっともっと韓信を、追い込みたかった。
そのために、彼女は彼のもとに、戻って来たのだ。
しかし、韓信は、彼女に言葉を返さなかった。
黒燕は、男を真っ直ぐに押すことを、とりあえずやめにした。
彼女は、真剣な表情を崩して、代わりに言った。
「― せめて後継ぎぐらい、作りなよ。王なんだから。」
彼女は、陽気な笑顔で、韓信に吹っかけた。
韓信は、言葉を濁した。
「いや、、、それは、、、」
韓信が予想どおりの反応をしたのを見て、彼女はまたも、ころころと笑った。
「はは。王に即位したのに、あんたはまだ匹夫だな。どうして、そんなに依怙地なのか、、、」
韓信は、さっきよりももっと、面食らってしまった。
黒燕は、欄干から体を引き離して、韓信の近くに歩み寄った。
「王になったのに、許されないことだよ。王っていうのは、後継ぎを作って、位を世々引き継がせる義務があるんだから。」
彼女は、静々と韓信に近づいた。
彼女の歩みは、風に揺れる花の動きであった。
韓信は、後ろに引き下がろうとして、結局彼女に見とれてしまっていた。
黒燕は、言った。
「王っていうのは、男の義務を最大限に果たす必要があるんだ―」
彼女は、韓信の胸の前まで、近づいた。
彼女は、韓信を見上げて、莞爾(にこり)として言った。
「― だから、望めばおめこに不自由しないように、決められている。それなのに?」
黒燕は、手の指先を一本立てて、韓信の胸を突っついた。
韓信は、いつもの彼女の流儀にすっかりやられて、困り笑いを返す他はなかった。
「黒燕、君って奴は、、、!」
黒燕は、言いかけた。
「ようやく、あなたの元に、来ることができて、、、」
だが、その後の言葉は、遮られた。
楼閣に昇って来た者の声が、二人の会話を断ち切った。
「大王!、、、漢からの正使が、参りました。張良子房です!」
告げに来たのは、蒯通であった。
「張良子房、、、張兄が?」
韓信は、正使の名前に、直ちに反応した。
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