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四 皇帝の条件(2)

(カテゴリ:垓下の章

蒯通は、韓信と共にいた黒燕の姿を見て、一瞬だけ驚いた。

しかし、その後は彼女に声を掛けようとも、しなかった。
蒯通は、韓信に言った。
「漢は、張良子房をして、あなたを漢に繋ぎ止めさせようと、目論んでいるのです―」
韓信は、言葉を返さなかった。
黒燕は、韓信の動きを、じっと見て追った。
蒯通は、言った。
「― それでも、会われるのか。」
黒燕が、口走った。
「会うな!、、、追い返せ!、、、いや、殺してしまえ!」
彼女は、韓信の袖を、揺すぶった。
しかし、韓信は、彼女の手を袖から振り払った。
彼は、つぶやくように、言った。
「張良子房を、どうして私が、追い返すことができるだろうか―」
黒燕は、言った。
「漢なんかに、従わないで、、、大王!」
韓信は、首を横に振った。
「黒燕。これは、君が言うことではない。」
彼は、蒯通に漢の正使と会見すべき旨を、申し渡した。
蒯通は、苦い顔をして、彼の言葉に従った。

「おお、張兄!」
韓信は、宮城の王座に掛けて、漢の正使の一行を出迎えた。
韓信は、一行の先頭にあって平伏する張良の姿を認めて、席から腰を浮かせた。
韓信は、張良に言った。
「平伏などは、もうおやめ下さい、、、あなたと私の、間柄です!」
しかし、張良は頭を変わらず地に着けたままで、言った。
「あなたの打ち立てた功績は、もはや私ごときなどには、及びも付きません。あなたは、その功績ゆえに、いま大王として南面なさいました。身分が、違います。どうか、このまま王と臣下の礼をもってあなたと対することを、お許しください―」
韓信は、眉をひそめて言った。
「張兄!、、、おやめください。どうか、顔を上げてください!」
再度言われて、張良は、ようやく顔を上げた。
彼は、韓信に言った。
「漢王は、あなたが真の斉王として立つことを、認めました。漢と斉とは、必ずや共に楚を倒すべき、同盟国とならなければなりません。天下平定の大目的を、斉王はお忘れ召されるな。それが、正使の私が、申し上げる言葉でございます。」
韓信は、当然のごとくに、うなずいた。
横から、蒯通が声を出した。
「斉王は、自らの赫赫たる武略をもって、斉を受け取られたのだ。斉王が天下にどのような経綸を持たれるかは、これ斉王がご自身で決められること。漢使、張良子房よ。斉王は、漢王が認めたから、王位にあるのではないぞ。履き違えるべからず!」
しかし、張良は、蒯通の言葉を予想していたかのように、自らの言葉を継いだ。
「王位とは、天命によって、受け取るものである。ゆえに、王個人の意向では、如何ともしがたき道が、必ずある。いま天下に複数の王が並び立って、相争うことが許されるのか。現在疲弊の極みにあって、明日とも知れぬ生活を続けている困窮した天下の民を、これ以上徒(いたずら)に弄んで、許されるのであるか。向かう道は、天下平定への、一本道なのである。蒯通。お前こそが、履き違えている!」
張良は、ぴしゃりと言ってのけた。
蒯通は、張良に向けて、目を剥いた。
怒る蒯通を尻目に、張良は韓信に言った。
「斉王。あなたは、真の天才です。あなたは、私などよりも、はるかに大きな才の持ち主でした。その才が、ついに王位をあなたに与えました― 私は、今のあなたに、申し上げたきことがございます。」
韓信は、聞いた。
「、、、なんでしょうか。」
張良は、言った。
「一つのことを、聞かれるがよい。それは、あなたもまた心の奥底で、思っていることなのです。」
韓信は、聞いた。
「言ってください、、、張兄。」
張良は、韓信に言った。
「斉王― あなたが王であることは、わざわいです。」
韓信は、びくりとした。
張良は、冷え固まった一座の空気を気にも留めず、言葉を続けた。
「あなたは、天下を取る気が、少しもない。しかも、名声はすでに、天下に隠れもない。それが、天下の行く末に暗雲をもたらしています。天下が割れることは、わざわいです。あなたは、いま王位に昇って、天下を割ってしまったのです。」
蒯通は、侍従する者たちに、目配せをした。
いよいよ、漢の正使を殺さなければならない。蒯通は、斬る用意をさせた。
張良は、そのような斉の配下たちの動きなど、気に掛けなかった。
彼は、韓信と相対して、彼に聞いた。
「斉王。あなたは王位になど昇って、いったい王朝を、開くつもりなのですか―?」
韓信は、張良に問われて、声を詰まらせた。
「王朝を、開く、、、?」
張良は、言った。
「そうです。王朝です。百官将軍を従え、社稷の神を祀り、自らの身は国家と一体化した現人神と化して、王位を子々孫々に引き継がせて行く。それが、王朝です。あなたご自身が王朝を開き、漢王朝を食らってしまうご意志がおありなのでしたら、私は何も申すことがございません。漢王劉邦と、斉王韓信が、天命の有無を賭けて、争うまでです。しかし、あなたにそのご意志が、あるのですか?、、、無ければ、それはあなたにとってわざわいであり、そして天下にとっても、わざわいなのです。」
張良は、韓信の心を抉るかのように、問い掛けた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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