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五 天下の禍(わざわい)(1)

(カテゴリ:垓下の章

張良は、言った。

「この天下は、一つの王朝が生き残る道に、向かっています。それは、止めようもない流れです。あなたは、漢王を喰らうか、そうでなければ王位を捨てなければなりません。他の道は、ありません。もしその二つの道のどちらも拒まれるならば、あなたはわざわいです。」
張良の背後には、すでに刀を抜き身にした者どもが控えて、殺気を走らせていた。
蒯通は、張良に斬りかかる合図を、出そうとした。
彼は、斉王の命令がなくても、張良を斬って、漢と斉を手切れさせるつもりであった。
張良は、言い終わって、微動だにしなかった。
韓信は、王座からすっかり立ち上がっていた。
蒯通が、発声した。
「斬、、、!」
韓信が、絶叫した。
「― 待て!」
彼の大喝に、踊り掛かろうとした者どもの動きが、押し止められた。
蒯通は、叫んだ。
「もうあなたは、私人ではない!、、、王位を脅かす者は、除かねばならないのだ!」
韓信は、狂気に触れたように、首を横に振り叫んだ。
「待て!待て!待て!― やめろ!」
彼は王座から駆け下りて、張良と配下たちの間に、割って入った。
韓信は、言った。
「蒯通!、、、諸官!、、、控えよ。控えぬと、斬るぞ!」
彼の必死の制止によって、ついに張良を斬ることは、抑えられた。
蒯通は、王の制止を大いに不満として、言った。
「その使者の申すことは、一つだけ正しい。漢王とあなたは、所詮食うか食われるか。あなたが逡巡することは、必ずやわざわいを招く。大王!目を見開いて、よく現実を見たまえ。」
韓信は、それでも張良を斬らせることなど、絶対にできなかった。
韓信は、振り向いて後ろに控えたままの張良に、言った。
「張兄、、、いや、漢使よ。申し渡す。斉は、漢と共に楚を討つことに、変わりはない。それが、我が意志だ。」
張良は、韓信に深くぬかずき、再び拝礼した。
「漢王に、その旨お伝えいたします。」
韓信は、彼に言った。
「今は、、、今は、漢に、戻りたまえ。」
韓信は、張良を斉から早く逃さなければならなかった。
それより他に、彼の配下たちから、張良の命を助けることは、できなかった。

宮城の外の、都の殷賑とした一角に、漢使の一行ために用意された、宿舎があった。
宮城で斉王に謁見した、まだその日のうちのことであった。
正使の張良の姿は、もう宿舎の中から、消え失せていた。
張良は、人目を逃れて、密かに都の離れまで赴いて、斉都を去るために馬車に乗ろうとしていた。
「韓子よ、、、今の君とは、もう会うことができない。」
張良は、天を仰ぎ、王座にある韓信に、思いを馳せた。
王位にあることは、韓信にとって重すぎる衣を纏っているようなものであった。
張良は、用意しておいた馬車に乗り込もうと、歩みを進めた。
彼の歩みが、止まった。
張良は、馬車の前に立つ人影を見た。
「― 刺客か。」
彼が問い掛けた影は、まるで刺客のように見えなかった。
しかし、誰にも知らせていないはずのこの場所に立っているのは、きっと張良を害そうとしているに、違いなかった。
立つ影が、張良に聞いた。
「殺して、いいですか?」
張良は、その者に言った。
「暗殺する者が、相手に前もって聞く。珍妙なことだ。」
影は、優しい声で、張良に言った。
「あなたは、韓信の邪魔なの。だから、私は殺したい。だけれど、黙って殺していい奴と、そうでない奴との区別は、私にも付く。始皇帝とか劉邦は、黙って殺しても構わない。だけど、あなたは違うからよ。」
張良は、立つ女の姿を見て、笑いながら言った。
「韓子も、隅に置けないな。」
黒燕は、笑う張良に、怒気を含ませて言った。
「笑うな、、、!殺すよ。」
張良は、聞いた。
「君の名は?」
黒燕は、答えた。
「趙黒燕。始皇帝の命を断ったのは、この私さ。そして今は、韓信と共に、いずれ漢王劉邦を、殺して見せる。」
張良は、彼女の言葉に、しかし驚きもしなかった。
彼は、むしろ黒燕に言った。
「君は、それほどの女であるか― ならば、韓子を導いて、天下を取るべき王に仕立て上げるがよい。女性に押されるのが、男が奮い立つには、最もよいことだ。」
張良は穏やかに語り掛けていたが、真剣にそのように思っていた。
黒燕は、張良に言った。
「韓信は、天下を取るよ。劉邦を、倒すのさ。」
張良は、微笑んだ。
「それ。その意気だ。黒燕とやら、もっと韓信を、煽り立てるがよい。」
黒燕は、懐から剣を出した。
「殺します―!」
張良は、それでも慌てる様子を、見せなかった。
「黒燕。だが韓信は、天下など取れない。残念だが、彼は取れないのだ、、、考えてみよ。」
張良は、彼女に語った。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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