«« ”五 天下の禍(わざわい)(1)” | メインページ | ”六 山の如く林の如く(1) ”»»


五 天下の禍(わざわい)(2)

(カテゴリ:垓下の章

「皇帝となることは、天下でただ一人、富と位を独占する存在となることなのだ。それが、どれだけ恐ろしく、そしてどれだけ汚らわしいことか、君に分かるか?」

張良の言葉に、黒燕は返した。
「汚れる必要なんか、ないさ、、、私は、皇帝なんてこの世にいない方がいいと、思っている。韓信が劉邦を倒したら、始皇帝みたいな汚れた権力なんか、なくしてしまうんだ。それで、誰も泣かずに済む。」
張良は、彼女に言った。
「君は、何も分かっていないか、それともわざと目を逸らしている。この世から皇帝がいなくなる、はずがない。この世の民は、心の底から皇帝を欲しがっている。」
黒燕は、張良の言葉を、嘲笑った。
「はは!、、、皇帝なんか、権力に任せて無茶苦茶するだけじゃないか。郷里の民は、皇帝とか王朝とかに関わって欲しくないと、願っているのよ。それが、民の心からの願いだ、、、あんたの言うことは、全然おかしいね。」
しかし張良は、首を横に振った。
「いいや、欲しがるのだ。それが、郷里の民の、狡(ずる)いところなのだ。彼らは王朝の苦しみから逃れたいと願い、そのくせ富と位を王朝から奪い取りたくて、たまらない。王朝を知ってしまった郷里の民は、もう王朝なしでは生きて行くことが、できないのだ、、、」
彼は、天下の本音を、知り過ぎていた。
だから、目を逸らすことができなかった。
天下平定を望む張良にとって、民の本音は心で汚らわしいと思いながらも、直視するしかない、現実であった。
彼は、言った。
「この天下に住む人間どもが、望んでやまないもの。それは― 福禄寿。」
福と、禄と、寿。
民が渇望する、飾りの無い三つの欲望であった。
福。すなわち、できるだけ多くの子孫を作って、己の血筋を繁栄させること。
禄。すなわち、できるだけ多くの金と、できるだけ高い地位を掴み取ること。
そして、寿。すなわち、できるだけ長く生き続けて、この世で欲にまみれた生活を、できれば永遠に続けること―
張良は、ため息を付いた。
「福禄寿。いくら奇麗事を言っても、真相は残念ながら、そうなのだ。だから、王朝の官職を民に開き、出世と利権と役得を与えてくれる皇帝は、郷里の民にとってなくてはならない存在なのだ。もしそれを拒めば、民が引きずり降ろすまでだ。」
民が、皇帝を望む。
決して、皇帝を尊敬しているからでも、愛しているからでも、ない。
ただただ、自分たちが禄を得られることを、夢見ているからであった。王朝とは、富と栄光が待っている、夢の世界であった。立身出世したい民が、王朝に向けて目の色を変えて、突撃していく。その誰もが、幸福になれるわけではないのに。しかし、それでも民は、王朝を欲しがるだろう。
この戦乱が終わった後に必要なのは、愚かしくもいたいけな民の願望をすくい取るための王朝を、彼らに与えてやることであった。それによって、民は苦しいながらも夢見ることが、できるだろう。
張良は、言った。
「そんな王朝の頂点に、皇帝は立たなくてはならない。その皇帝は、天下で最大の福禄寿を得た存在として、最も汚れなくてはならないのだ。ありとあらゆる欲が、王朝を主催する皇帝には、押し寄せて来る。皇帝は、それらを喜んで引き受けて、己と皇室のために百官諸将を働かせなければならない。汚れることができない者は、皇位に昇る資格はない。」
黒燕は、張良に聞いた。
「つまり、劉邦は汚れているから、皇位に昇る資格がある、、、そう言いたいの?」
張良は、彼女に答えた。
「そうだ。劉邦は、汚れることを引き受けることができる。だから、彼は皇位に昇るであろう。」
彼は、もはや漢王のことを、本名で呼んだ。もとより彼は、韓の人間であった。漢王には、天下平定を補佐するために、付き従っていた。彼は、漢王朝で禄が欲しいなどと、思っていない。
張良は、言った。
「私も、韓子も、汚れることを望んでいない。だから、汚れる身に己を置くことが、できないのだ。それが王朝に挑戦する立場にあることは、わざわいなのだ。韓子では、天下は決して治まらない。項王では天下が治まらなかったのと、同じように。」
黒燕は、張良の言葉に納得できず、言葉を返そうとした。
「だけど―!」
張良は、彼女の言葉を遮るように、問い掛けた。
「黒燕とやら。君に、分かるだろうか。いや、君はたぶん、知っているはずだ。」
挑むような彼女の視線にたじろぎもせず、張良は言った。
「男が心の奥底で望む、人生最大の快楽とは、何であるか―」
黒燕は、目を凝らした。
「それは、、、それは、、、」
言葉を捜す彼女に、張良は言った。
「奇麗事は、払い除けろ。権力を持った者どもをよく観察すれば、分かることだ。始皇帝、それに、劉邦、、、」
張良の言葉は、彼女のあせりを飲み込むかのように、落ち着いていた。
しばしの、沈黙があった。
黒燕は、やがて声を搾り出した。
一言だけ、答えた。
「― 福。」
張良は、言った。
「そうだ。自分の子孫を無限に増やし、繁栄させることだ。この天下で、皇帝だけが、その唯一の権利を持っている。皇帝は天下から数多の妾婢を献上されて、富と位に守られながら、天下の費用で子孫繁栄を楽しむことができる。皇位に昇る魔力とは、男が心の底で望んでやまない欲望を満たすための、誘惑なのだ。これからいずれ時が経てば、劉氏の子孫はこの国で屈指の大姓にまで、数を増やしていくことであろう。汚れを引き受ける者だけが、そんな途方もない欲望に、あえて進むことができる。私には、とてもその勇気がない。そして、韓子にも残念ながら、ない。だから、韓子はしょせん、庶人なのだ。いまだ妻も妾も引き受けない韓子に、天下を取ることは無理だよ。」
このとき、彼女の体が、にわかに震え始めていた。
張良は、言った。
「黒燕。君が韓子のことを想っているのならば、彼を後のことまで考えさせるのだ。彼は、天下平定の後に、庶人に戻るべきだ。最も難しい道であるが、君のような彼の周りにいる人々が、何とか彼を誘ってほしい。今のままでは、彼の将来には、わざわいが待っているだけなのだ、、、」
張良はここまで言って、その後は馬車に乗り込もうとした。
しかし黒燕は、立ち尽くしたままであった。
張良は、馬車の座席から、言った。
「もう、私を殺さないのか?」
黒燕は、答えなかった。
張良は、何事かを、彼女に感じた。
しかし彼は、それを言うこともなく、そのまま無言で馬車を走らせて去った。
残されて立つ黒燕の心と体の内に、暗い影がひたひたと押し寄せて来た。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章