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六 山の如く林の如く(1)

(カテゴリ:垓下の章

こうして、斉王に遣わされた張良は、広武山の漢軍のもとに戻った。

張良は、漢王の御前で、正使の経緯を復命した。
張良は、言った。
「斉王は王位にあるゆえに、国のことを考える家臣たちに取り囲まれているのは、必然なことです。しかし、斉王だけは、漢と共に天下を平定する心に、偽りはありません。どうか、今は彼を疑われるな。」
陳平は、張良の復命を聞いて、思った。
(― 動かさない方が、良い。)
この広武山で漢軍が対峙している間は、斉にあまり過大な要求などせず、斉王が逡巡するに任せるのが、最も無難であると考えた。
だが、陳平が進言する前に、漢王は感想を述べた。
「これで迷っているなら、やっぱりあの阿哥(にいちゃん)は、俺の味方だな。まずは、愛(う)い奴よ!」
漢王は、哄笑した。
陳平は、進言した。
「大王。斉王には、しばらく内政に専念してもらいましょう。彼も王になって間もないことですし、急がせる必要もありますまい、、、」
漢王は、皆まで言うなとばかりに、ちっちっと舌を鳴らした。
「俺はここで、根を張ってやろう。山のように、動かない。戦わずして、勝つ。戦わなければ、一番強いのは俺だ。」
陳平は、言った。
「大王。根を張るならば、決して動かないでください。くれぐれも、色気は禁物ですよ、、、」
彼は、どうも主君の言葉を、完全に信用できなかった。彼の主君には、庶人の時代からの変わらぬ性癖として、目立ってやろうという諧謔の心がある。その心が、これまで彼に無謀な戦を試みさせたことが、幾度もあった。その漢王に、これからの無為な持久戦が続けられるかどうか、陳平には一抹の不安があった。
しかし、漢王は陳平の心配などよそ目に、張良と会話を続けていた。
漢王は、言った。
「あの女、いなくなったと思ったら、韓信のところに走ったのか、、、そういう、訳だったのだな。」
張良は、彼が去り際に会った趙黒燕が、最近まで漢王の後宮に納められていたことを、漢王に言われて知った。
漢王は、張良に聞いた。
「あいつは、俺を倒したいと、言っていたか。」
張良は、答えた。
「そのように、申しておりました。」
張良は、それ以上彼女について、言わなかった。
漢王は、言った。
「― そうで、あろうな。」
それでも、漢王は彼女のことを、少し惜しいと思った。彼の許容範囲は、広い。
しかし、漢王は思い切った。
「まあ、、、よいか。俺は、女に溺れている暇はない。」
最近どうやら、西魏王から奪った妾の一人の薄氏もまた、漢王の子を身ごもった様子であった。
漢王は、にやにやとした表情を作って、言った。
「天下の仕舞いも、近い。後々のために俺はもっと子を、作らんとな。」
ちなみに、やがて薄氏が産む子は漢王の四男劉恒となり、成長の後に孝文帝として即位するだろう。薄氏は薄太后に昇る大出世を遂げて、漢王朝の血統は彼女の産んだ孝文帝の子孫たちによって、受け継がれていくこととなるであろう。
だが、そのような遠い将来のことは、置いておいて。
漢王は、王座に座りながら、大きく一つ伸びをした。
両の手を高く伸ばして、しばしの間、目を閉じた。
目を開けた後、彼は配下に命じた。
「おい、張耳の息子を、この広武山に呼んで来い。」
趙王張耳の息子とは、嫡男で太子の張敖のことであった。
漢王は、言った。
「あいつは、俺の娘婿になる奴だ。義父として、躾(しつ)けてやろう。」
張敖は、漢王の長女の魯元公主と娶わせることが、決まっていた。
籠城の暇つぶしに、娘婿をいびり倒してやろうと、彼は思った。
陳平は、言った。
「趙王は、すでに老衰の床に伏せって、長くないとか。それで太子を、呼び寄せますか?」
漢王は、言った。
「だから、呼び寄せるのだ。良からぬ動きを、させんためにな。あの息子は、気が弱い。俺の顔色を窺(うかが)って仕えさせる体験を積ませれば積ませるほど、もう逆らえない。」
漢王は、口の端をゆがめて、笑った。
甘ったれた張耳の息子などは、漢王にとって赤子の手をひねるように、縛り付けることができた。
張耳の息子といい、韓信といい、諸侯を決して手放さない。
韓信には、甘い声で語り掛けて、漢王が送った曹参と灌嬰の両将には、韓信のために忠実に仕えるように、申し渡した。いっぽうで張耳の息子なんかには、親として振舞い、凄みを見せた。漢王は、諸侯の手綱を締めるために、仮面を使い分ける手練手管を見せた。
漢王は、自信にあふれた声で、言った。
「俺は、天下諸侯の親だ。親というものは、甘い顔をする時と、懲らしめる時とを使い分けないとな、、、ははは!」
陳平は、肩をすぼめて、笑う漢王に答えた。
「大王は、まことに天下の親であらせられる、、、」
漢王は、笑いを収め、それから威勢良く王座から立ち上がった。
「さてと!― 城の向こう側の様子でも、見に行くか。」
鴻溝を挟んだ対岸には、項王の覇王城がすっかり完成していた。
漢王は、靴音を鳴らしながら、外に向かった。
「奴は、まだ動かない―」
歩く漢王に、陳平が言った。
「いえ、動けないのです。こちらが仕掛けない限り、もう項王に打つ手はないからです。」
漢王は、言った。
「つまらんな。せっかく、相手が乗り気なのに。いっそ、何かやらかすか、、、余興の程度に。な?」
漢王の問い掛けに、陳平は眉をひそめた。
「その色気が、よろしくない―!」
漢王は、笑いながら、陳平の背中をばんばんと叩いた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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