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六 山の如く林の如く(2)

(カテゴリ:垓下の章

張良は、広武山の漢王城の一角に、質素な居室を構えていた。

彼も、漢王と共に城篭りを続けている。軍師としての、責務を果たしていた。
漢王の御前から退いて、居室に戻った張良は、陳麗花と共に座していた。
麗花は、張良に言った。
「韓子は、王となられて―」
彼女は、羽扇をゆっくりと動かして、張良に風を送った。
城の中は、空気が滞る。
冬が過ぎ去り、再び陽気が盛んとなる季節になった。彼女は、体を痛めている主君を、塞がり澱む城中の陽気から守ろうと、手を静かに動かし続けた。
彼女は、言葉を続けた。
「彼が望んだわけでもない王位に昇られて、やっぱり変わっていなかったのですね。進まない韓子は、やはり賢明なお方です。」
張良は、彼女が手づからに起こす風をありがたく頂戴しながら、言った。
「賢明だろうか。彼は。」
麗花は、言った。
「公子もおっしゃるように、あのお方が漢王と天下を争うのは、無理です。民のために戦わないのは、賢明なことでしょう?」
張良は、彼女に言った。
「漢王が外に出て行った後で、陳平が私のところに戻って来た。彼は、私にこのようなことを、言ったのだ、、、」
陳平は、軍議の座に残っていた張良のもとに、漢王から離れて足早に駆け戻って来た。
彼は、張良に、彼の腹中の案を囁(ささや)いて、意見を問うた。
― 戦の後、斉王韓信に、項王の遺領を与えようと思うのです。
張良は、陳平の案について、麗花に言った。
「天下はあまりに広く、中でも楚は広すぎる。項王を倒したとしても、これを官吏をもって治めることは、にわかに難しい。そこで韓子を、王に据えるというわけだ。韓子にとってはさらなる大国の王となるわけで、漢王の彼への高い評価が、形で示されることとなる、、、」
項王の後を継いで楚王に昇るともなれば、これはもう途方も無い、大出世であった。
麗花は、張良に聞いた。
「公子は、なんとお答えしたのですか?」
張良は、答えた。
「もし斉王韓信が、漢王の申し出を受けるのならば、致し方あるまい。私は、そう答えた。そう答えざるを、得なかった。」
先に罠があることは、見え透いていた。
功績隠れもない韓信は、上に上に持ち上げなければならず、そして持ち上げ切った高みの先には、待っている結末がある。
張良は、言った。
「陳平は、軍師としてふさわしい。彼は、すでに統一の後のことまで、考えている。だから漢王は、彼を手放せないのだ。」
張良は、麗花の方を、向いた。
彼は、休まず動かしている彼女の手を、そっと抑えた。
「ありがとう。疲れるだろう。しばし、手を止めよ。」
彼は、彼女に微笑んだ。
麗花は、首を横に振った。
「公子に仕えることは、私の喜びです。疲れることなど、ありませんよ。」
張良は、軽くうなずいて、彼女の心に感謝した。
彼は、言った。
「― 私は、軍師としても、失格だ。」
麗花は、言った。
「公子。何ということを、おっしゃる、、、」
張良は、言った。
「天下を平らかにすることは、嫌なことばかりだ。私の心は、ひそかに太平の後の世を厭っている。それでは、軍師にはなれない。間もなく、天下は統一されるだろう。しかし私は、この後の世を、もう見たくない。」
麗花は、思った。
彼女の主君は、命を終えることを、望んでいる。
彼は、日々のわずかな食すら拒んで、やがて命の灯を消してしまおうと望んでいるに、違いなかった。
「公子―」
麗花は、泣き始めた。
「なあ、麗花。」
張良の問いに、麗花は泣きながら答えた。
「はい。」
張良は、言った。
「こんな私を、どうか生き続けさせては、くれないか?」
「――」
麗花は、初め主君の言っていることが、分からなかった。
張良は、不思議な問いを、彼女に掛けた。
だが―
しばらくの後に、彼女は泣き止んでいた。
それから、彼女は言った。
「公子。あなたはいつも、飄々と言われる、、、困ってしまいます。」
張良は、言った。
「私の、悪い癖だ。もう、治らない。許せ。」
誰か気に掛ける命さえ、この世に続いて行けば、もう死ぬわけにはいかない。
ごくごく簡単なことで、しかし決して疎かにしては、ならないことであった。
張良は、彼女に向けて、饒舌になろうとした。
「私は、たとえ厭わしくても、死ぬことができない。天下の行く末を、見届けなければならないのだ。私は、その義務を果たすために、後に続く者を持って、何とかこの世に留まろうと思う。だから―」
麗花は、莞爾(にこり)として、張良の言葉を押し止めた。
彼女は、彼の唇の先に、細い指を当てがい、言った。
「ずっと、この私が望んでいたことです。公子は、私の望みを、叶えてくれる。こんな嬉しいことは、ございません―」
それから、彼女は張良の懐に、ゆっくりと身を寄せた。
間もなく、日が暮れる。
戦場の中の静かな夜が、身を寄せ合う二人に、やって来ようとしていた。
褥(しとね)を用意する麗花の背中に向けて、張良は言った。
「私は、陳平に言った― 韓子を生かす道を、何とか残して置いてくれ、と。陳平は、答えた。それは、韓子に掛かっていることだ、と。そうだ。これからのこと全ては、彼の心次第なのだ。」
麗花は、褥を敷き終えて、それから張良に答えた。
「今は、見届けましょう。私たちは、静かに―」
二人の時間が、静かに流れていった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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