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七 覇王は城で(1)

(カテゴリ:垓下の章

広武山の対岸に覇王城を築いて、対峙する項王軍。

しかし、状況はもはや、行き詰まっていた。
龍且が率いて斉に討ち入った楚軍は、韓信によって完膚なきまでに、破られてしまった。
江東の騎兵たちを率いて参戦した呂馬童も、韓信に敗れ去った。
呂馬童の生死は、項王にとって全く明らかでなかった。今も彼は、項王のもとに、戻って来なかった。
呂馬童を始め、江東での挙兵以来付き従って来た江東の子弟たちは、今やほとんど項王のもとから消え去ってしまった。
股肱たちを失い、同盟国は無く、敵はひたひたと押し寄せて来る。
もう項王には、何の展望も与えられなかった。
武渉という者が、覇王城に留まる項王に説いた。
「斉王韓信を、何とか説き伏せましょう。それがしが、行って説いて参ります、、、!」
項王は、巌(いわお)のように深く座っていた。
彼は、武渉の必死の進言を、黙って聞いていた。
項王は、語り終わった説者に、莞爾(にこり)と微笑んだ。
武渉は、邪気のないその美顔に、顔を赤らめてしまいそうになった。殺気を消して笑えば、彼の美貌は女性をも上回る、色気を感じさせた。
項王は、言った。
「行くがよい。」
彼は、この場に及んでまだ自分に進言してくれた武渉に、今は素直に感謝した。武渉のような者に感謝することなど、項王にとっては初めてのことであった。
項王は、座から立ち上がって、武渉に申し付けた。
「どうか韓信に、伝えておくれ―」
いぶかる武渉に、項王は邪気のない表情のままで、向き合った。
彼は、言った。
「、、、君の戦は、見事であったと。」
項王は、まことに美しい目をして、彼に言った。
武渉は、大いに戸惑いながら、しかし項王に言った。
「韓信を称えるのは結構ですが、それよりも肝要なのは、彼を楚に味方させることです。旧敵の関係を不問に処し、漢王が信用できないことを、説かなければなりません。大王!、、、それがしは、韓信を説得できなければこの首を差し出す覚悟で、参りたいと望んでおります。」
項王は、真剣な武渉の言葉に、うんうんとうなずいた。
しかし、彼の目は、どこか遠くを見ているかのようであった。
項王は、それから武渉のもとを離れて、城外の空気を吸うために、歩き去った。
残された武渉は、項王の心中をいぶかるばかりであった。
塁壁の向こうには、鴻溝の流れを挟んで、漢王の籠る城があった。
彼は、漢王を追って、この広武山を攻めた。
しかし、守りは堅く、項王の力をもってしても、突破することはできなかった。
彼は、呂馬童たちを失ったことを知った後に、この覇王城を漢王の対岸に築き始めた。
項軍の戦法に、籠城の二文字は、これまで絶えて無かった。
しかし項王は、城を築き、ここに自ら入った。
せめて、天下を分ける漢王と、対峙したかったのであろうか。
彼は、もう未来を、心の中であきらめてしまったのであろうか。
彼は、心中を明かさなかった。そして、対岸の漢王城との対峙は、一月に至るまで日を数えても、何も動くことがなかった。
籠城しているうちに、食糧はますます先細りとなっていった。
彭越がまたしても盛んに動いて、糧道を断った。
自国の民からの徴発は、もう限界を越えようとしていた。彼の季父(おじ)の項伯は、項王に黙って、籠城戦に必要なはずの徴発の割り当てを、減らし始めていた。民の命を守るためには、もはや項伯は甥に構っていられなかった。だがそのため、項軍の戦力は、日を逐うごとに痩せて行った。
城の外は、うららかな春の陽射しであった。
項王は、しかし陽だまりの中で、目を伏せた。
「時、利有ラズ―」
項王は、自作の作りかけの詩の一節を、口に出した。
彼は、天を仰いで、独語した。
「私は、天に見放されたのか。」
彼は、泣かないと欲しながらも、込み上げてくる感覚に、またも襲われてしまった。
「時、利有らす。我ここに、ただ一人、、、」
そう、言いかけたとき―
彼の背中から、馬のいななきが、聞こえて来た。
項王は、はっとして振り返った。
「騅が、動くか。私が、乗っていないのに?」
彼の乗り馬、騅は、名馬であるゆえに、常人では乗りこなせない。
項王以外に、騅の背に乗り遂せることができるとは、奇妙であった。
項王は、振り返った先に、確かに騅の銀色の毛並が輝いて近づいて来る姿を、確かめた。
しかし、その上に乗っていたのは?
「項羽!この子は、私を乗せてくれるよ。あはは、愉快、愉快!」
甲高い歓声が、騅の背中から聞こえて来た。
明るい表情をして馬の背に揺られて来る虞美人を見て、項王は驚いて喜んだ。
「どうして、君が乗れたのだ―?」
項王の問いに、虞美人は答えた。
「一度、乗ってみたかったんだ。それで、兵たちに無理を言って、背中に乗せてもらったの。私を見る兵たちは、青い顔をしていたよ、、、ところがどうだい、まるでこの子、驢馬みたいじゃないか。はは、ははは!」
何とも危なっかしい虞美人の手綱さばきであったが、騅は彼女を落とすまいと、体の平衡を保って彼女に水平な背中を用意していた。
項王は、彼女のもとに、駆け寄った。
「こいつは、私の連れ合いである君のことを、認めたのだ。大した奴!」
項王は、騅の首を愛しげに、撫ぜた。
虞美人は、言った。
「籠城なんて、退屈で仕様がない。項羽!何か、やらかしなよ。」
項王は、言った。
「虞美人、君は私の救いだ。ありがとう。ありがとう。」
虞美人は、首を伸ばして、項王の額に、口づけしようとした。
だが、その姿勢には無理がありすぎたようだ。
彼女は、たちまち騅の背中から、転げ落ちた。
しかし、問題なかった。
次の瞬間、項王の腕が、彼女の体をしかと受け止めていた。
二人は、それこそもう転げるように、笑いさざめいた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章