趙軍は、修武の城内に陣営を置いていた。
すでに、朝夕は肌寒い季節となっていた。
朝はようやくほのかに暁の明るさが空の端を覆い始めた頃で、鶏鳴を聞くにも、城門が開くにも、まだ早い。
(昨日の、晩―)
韓信は、自室で床に着きながら、うとうとした頭で考えた。
頭の中はまだ覚めておらず、混乱する思考は途切れ途切れであった。
(黒燕が、ここにいた。)
彼は、添い寝をしていたはずの黒燕が、どうして横にいないのだろうかと、不審に思った。
再び、睡気が頭の中に、ぶり返した。
しばらく浅い眠りに沈んだ後に、また韓信は意識の世界に戻って来た。
(なんだ。夢の中の、ことだったか。)
彼は、思い直した。
それから、少し頭を傾げた。
(、、、いや。)
彼は、ようやく思考を進めた。
(確かに、横にいた。)
韓信は、昨晩のことを思い返した。
(そうだ。決してみたので、あった、、、)
彼は、ようやく黒燕に対して、夜を共にするように願ってみたのであった。
もちろん、黒燕が拒むわけがなかった。簡単な、ことであった。
夜着に着替えた彼女が、微笑んで侍っていた。
ほのかに照らされた彼女の姿は、持ち味のあの艶やかさではなくて、むしろ愛惜しさに満ちていた。
(なのに―)
韓信は、思った。
(今、いない。)
彼は、重い頭を、床に押し付けた。
(笨蛋(ばかもの)だな― この私は。)
彼は、せっかくの夜を、睡魔が襲うに任せてしまった。
少し横にならせておくれ、と彼女に言ったのが、結局のところ、昨晩の意識の最後であった。
確かに、昨今の彼は、神経をすり減らす毎日であった。
南の戦線は、予想した通りに、漢軍にとって最悪のものであった。
趙軍の諸将の間では、無益な戦への怒りが、沸騰する寸前であった。
韓信は、内と外との状況の渦中にいた。彼の意思は、漢にとっても趙にとっても、否応なしに大きな意味を持っていた。
彼は、意を決しなければならなかった。その時は、すぐ先に迫っていた。
(その前に、喜んでいられない。そんなことを、私は思ったのだろうか、、、?)
韓信は、昨晩の恥ずかしい始末について、何とか正当化しようとした。
(情けなし。漢王などだったら、飯を食うように、やり遂せていたろうに、、、)
自分と国の、進退のことも。
もっと近しくて、隠微なことも。
彼は、とりとめもない思考の中で、黒燕の姿を目の裏に描いた。
彼女が横にいなくなったのも、当然だと思った。
(済まなかった。だが、今日こそは、、、)
手足はいまだに眠っていて、思うように動かなかった。
頭だけで考えるのは、縛られたようで苦しかった。
(頭だけ考えて、手足が動かない。今の、私のようだ―)
遠くから、朝一番の鶏鳴が、聞こえて来た。
(今日、こそは、、、)
彼は、決意したつもりで、再び眠ってしまった。
どのくらい、眠ったのであろうか。
気が付くと、閉じた瞼を通す光の量は、かなり増えていた。
しかし、日が明けるには、まだ早い。室内が、何とか見通せるぐらいの明るさであった。つまり、少しまどろんだ程度にしか、時は過ぎていなかった。
気配を、感じた。
人の、気配のようであった。
(黒燕?)
韓信は、最初に思った。
瞼を、開け閉めした。
(彼女、ならば、、、)
謝らなければ、ならない。
韓信はそう思って、首を上げようとした。
眠る四体に力を入れて、体を動かした。
彼は、ようやく上体を上げた。
昨晩彼女がいた、床の左横を向いた。
誰も、いない。
(こちらでは、なくて、、、)
彼は、首を回して、反対の右横を向いた。
靴先が、見えた。
(― 誰?)
寝所の床に、土足で入るのは尋常ではない。
韓信は、顔を上げた。
女では、なかった。
背の高い男が、いた。
汚れた頬をして、まるで浮浪人のようであった。
韓信は、驚愕して、顔を強張らせた。
男は、韓信に言った。
「ようやく、起きたか。言え。お前の印綬は、どこだ!」
男は、恐ろしく低い声で、左丞相の印綬の置き所を、韓信に尋ねた。
弁護士 寺 谷 英 兒 08/14
SuzumotoJin 08/14
弁護士 寺 谷 英 兒 09/25
十八 天命尽きて(2)
元塾講師中里によるアフィリで楽しく毎日が給料日 02/10
十八 戦は続く(3)
弁護士 寺 谷 英 兒 10/22
鈴元仁 10/22
二十三 垓下へ(1)
ボルックス 09/12
鈴元仁 09/12
ちんぱん 10/08
鈴元仁 10/08
二十四 項王敗る(2)
yueisya 09/16