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一 盗賊王が盗む(2)

(カテゴリ:国士無双の章

趙軍は、修武の城内に陣営を置いていた。
すでに、朝夕は肌寒い季節となっていた。
朝はようやくほのかに暁の明るさが空の端を覆い始めた頃で、鶏鳴を聞くにも、城門が開くにも、まだ早い。

(昨日の、晩―)
韓信は、自室で床に着きながら、うとうとした頭で考えた。
頭の中はまだ覚めておらず、混乱する思考は途切れ途切れであった。
(黒燕が、ここにいた。)
彼は、添い寝をしていたはずの黒燕が、どうして横にいないのだろうかと、不審に思った。
再び、睡気が頭の中に、ぶり返した。
しばらく浅い眠りに沈んだ後に、また韓信は意識の世界に戻って来た。
(なんだ。夢の中の、ことだったか。)
彼は、思い直した。
それから、少し頭を傾げた。
(、、、いや。)
彼は、ようやく思考を進めた。
(確かに、横にいた。)
韓信は、昨晩のことを思い返した。
(そうだ。決してみたので、あった、、、)
彼は、ようやく黒燕に対して、夜を共にするように願ってみたのであった。
もちろん、黒燕が拒むわけがなかった。簡単な、ことであった。
夜着に着替えた彼女が、微笑んで侍っていた。
ほのかに照らされた彼女の姿は、持ち味のあの艶やかさではなくて、むしろ愛惜しさに満ちていた。
(なのに―)
韓信は、思った。
(今、いない。)
彼は、重い頭を、床に押し付けた。
(笨蛋(ばかもの)だな― この私は。)
彼は、せっかくの夜を、睡魔が襲うに任せてしまった。
少し横にならせておくれ、と彼女に言ったのが、結局のところ、昨晩の意識の最後であった。
確かに、昨今の彼は、神経をすり減らす毎日であった。
南の戦線は、予想した通りに、漢軍にとって最悪のものであった。
趙軍の諸将の間では、無益な戦への怒りが、沸騰する寸前であった。
韓信は、内と外との状況の渦中にいた。彼の意思は、漢にとっても趙にとっても、否応なしに大きな意味を持っていた。
彼は、意を決しなければならなかった。その時は、すぐ先に迫っていた。
(その前に、喜んでいられない。そんなことを、私は思ったのだろうか、、、?)
韓信は、昨晩の恥ずかしい始末について、何とか正当化しようとした。
(情けなし。漢王などだったら、飯を食うように、やり遂せていたろうに、、、)
自分と国の、進退のことも。
もっと近しくて、隠微なことも。
彼は、とりとめもない思考の中で、黒燕の姿を目の裏に描いた。
彼女が横にいなくなったのも、当然だと思った。
(済まなかった。だが、今日こそは、、、)
手足はいまだに眠っていて、思うように動かなかった。
頭だけで考えるのは、縛られたようで苦しかった。
(頭だけ考えて、手足が動かない。今の、私のようだ―)
遠くから、朝一番の鶏鳴が、聞こえて来た。
(今日、こそは、、、)
彼は、決意したつもりで、再び眠ってしまった。
どのくらい、眠ったのであろうか。
気が付くと、閉じた瞼を通す光の量は、かなり増えていた。
しかし、日が明けるには、まだ早い。室内が、何とか見通せるぐらいの明るさであった。つまり、少しまどろんだ程度にしか、時は過ぎていなかった。
気配を、感じた。
人の、気配のようであった。
(黒燕?)
韓信は、最初に思った。
瞼を、開け閉めした。
(彼女、ならば、、、)
謝らなければ、ならない。
韓信はそう思って、首を上げようとした。
眠る四体に力を入れて、体を動かした。
彼は、ようやく上体を上げた。
昨晩彼女がいた、床の左横を向いた。
誰も、いない。
(こちらでは、なくて、、、)
彼は、首を回して、反対の右横を向いた。
靴先が、見えた。
(― 誰?)
寝所の床に、土足で入るのは尋常ではない。
韓信は、顔を上げた。
女では、なかった。
背の高い男が、いた。
汚れた頬をして、まるで浮浪人のようであった。
韓信は、驚愕して、顔を強張らせた。
男は、韓信に言った。
「ようやく、起きたか。言え。お前の印綬は、どこだ!」
男は、恐ろしく低い声で、左丞相の印綬の置き所を、韓信に尋ねた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章