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一 盗賊王が盗む(1)

(カテゴリ:国士無双の章

広大な河水(黄河)の上を、取り立てて目立った特徴もない一艘の渡船が、進んでいた。

船の上には、老いた船頭と、それから他に漕ぎ手が二人。
客もまた、二人しかいなかった。
船頭は、南岸から載せた二人の客を、さっきからずっとじろじろと眺めていた。
河の中途まで、船頭と客とは何の会話もなかった。
ようやく中途に差し掛かった頃、おもむろに船頭が語り掛けた。
「― あんたら、何者だ。」
右の男は、答えた。
「廐司御で、ある。」
廐司御と言えば、郡県に属する馬車の運転手であった。まことに、けちな卑官にすぎない。確かに、男の服装は、地味そのものの官服であった。しかし、立派な体格をしている。
左の男は、答えた。
「県の属吏で、ある。」
だが、その風貌は、属吏というよりは浮浪人のようであった。
毛布で出来た粗末な褐(かつ)などを着込んで、顔は煤けて真っ黒であった。
その上、髭は無造作に切り取られていた。
(― 嘘だ。)
船頭は、見抜いた。
彼は、属吏と称する男から漂う汗の匂いで、すぐに分かった。
女を毎夜不自由無く抱いている男からは、匹夫とは違う匂いがする。精気の脂が、前夜の褥できれいに拭い取られているのである。
(この歳で属吏ごときならば、現世の快楽に手を伸ばす志を諦めた、取るに足らぬ小人だ。そのような奴が、色欲を満たして生きる力など、あるわけがない。こいつは、欲のままに生きて、死なずに生き残っている奴だ。間違いが、ない。)
いくらみすぼらしい風体をしていても、多くの客を見て来た船頭は、見通すことができた。
船頭は、思った。
(身分を隠して、何をしようというのか―)
船頭仲間は、この時代、当然追い剥ぎもする。
金目のものを持っていそうであったり、人質として儲ける見込みがあれば、容赦なく襲う。船の上では、逃げようもないからであった。
若い漕ぎ手たちは、船頭からの指図を待って、ちらちらと目配せする。
船頭は、いまだ動かずにいた。
「おい、船頭。」
左の属吏と称する男が、声を掛けた。
船頭は、答えた。
「何だ。」
属吏と称する男は、彼に言った。
「言っておくが、金などないぞ。」
船頭は、びくりとした。
属吏と称する男は、相手が飲まれたと見て、言葉を畳み掛けた。
「俺たちを対岸まで連れていけば、後でくれてやれるかも知れないがな― だが今は、お前たちに渡した船賃で、我慢しろ。それ以上は、銭一枚すら持っていない。というか、乗る前に全部河に捨てた。」
浮浪人のような属吏が、にやりと笑った。
船頭は、思った。
(こいつ、間合いを知っている、、、)
彼は、この属吏が後ろ暗い世界の住人であることを、直感した。
属吏と称する男は、言った。
「本当に、ないぞ。ここで脱いで、見せてやろうか?」
そう言って、上着の前をはだけた。
本当に、全部脱いでしまいそうな、男の勢いであった。
船頭は、手を振って制止した。
「止せ、、、男の裸など、見たくもないわい。」
男は、薄ら笑って、手を止めた。
白い肌に、黒子が目立つ胸であった。
たとえ船頭たちがこの客を襲おうとしたとしても、彼の横にいる廐司御の腕力があれば、三人ともかえって河に叩き込まれたであろう。
廐司御と称する男は、無言で睨みを聞かせていた。
船頭は、それ以上の問答を止めた。
こうしている間に、船は北の対岸に向けて、進んでいった。
対岸から向こうは、趙の版図である。
(そういえば、俺は趙に行くのは、これが始めてだな、、、)
属吏と称する男は、ようやく見えて来た対岸の地を眺めながら、思った。
船は、渡し場に着いた。
渡し場には、趙の官吏が常駐している。
二人の男は、官吏に見咎められたりしないように、このような目立たない服装をしていたのであった。
船頭は、属吏と称する男との別れ際に、彼に拝礼して言った。
「ご尊名を、教えていただけませんか?」
船頭は、この男がただものではないと、結論していた。
男は、言った。
「そのうち、誰でも知るようになる―」
船頭は、言った。
「我は目に一丁字すらない賤民でございますが、我が船頭仲間の一人に、身を隠した一個の賢者がおります。候公と、申す者です。よろしければ、彼をお引き立てくださいませ。」
男は、言った。
「身を隠している以上は、乱世に連れ出すわけには参るまい。その候公には、世が平らかになる時に立たれよと、申すがよいさ。」
そう言い残して、男と廐司御は呵呵大笑しながら、歩き去って行った。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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