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ニ 巨悪ここにあり(1)

(カテゴリ:国士無双の章

韓信は、驚きのあまりに床から飛び出そうとして立ち上がれず、腰を抜かした恰好となって、見下ろす男に対した。

彼は、もつれそうになる舌から、ようやく声を出した。
「大王!、、、どうして、ここに。」
彼から大王と呼ばれる男は、一人しかいない。
彼を遠征軍の長に任じた男、漢王劉邦であった。
漢王は、韓信を見下ろして、言った。
「どうしてもこうしても、あるか。この趙は、俺の国だ。兵権を、返してもらうぞ。言え!印綬は、どこだ!」
韓信は、言われるままに、褥(しとね)の下に手を伸ばした。
彼の愛用の長剣が、下から取り出された。寝る時には、床の隙間に長剣を挟んで、危急の時に備えていた。
印綬は、長剣の柄に結わえ付けられてあった。
「ふん。」
漢王は、彼から長剣をひったくって、さっさと印綬を外した。
韓信から印綬を取り上げた彼は、漢軍の兵権を全て回収した。
「次は、趙王だ―!」
漢王は、長剣を韓信に放り投げて返した後、もう韓信に背を向けて、室から出ようとした。
韓信は、長剣を抱えたまま、呆然と漢王の背中を見た。
もし彼が項王ならば、このとき迷わず、長剣で漢王を真っ二つに斬っていたであろう。
しかし、韓信は項王の蛮勇を持つには、あまりに性が平凡人であった。
漢王は、それ以降韓信に何も声を掛けず、どかどかと足音を立てて、寝所から去って行った。
漢王がここにやって来たのは、全くの不意討ちであった。
彼は、夏候嬰ただ一人を連れて、大胆にも朝まだ明けぬ頃に、修武の城内に入り込んだ。
「― 我らは、漢からの急使である。通せ。」
夏候嬰は、城門を閉める門衛に、言上した。
門衛は、通すことを渋った。
「使者ならば、節旄(せつぼう)がなくては、、、」
国家の使者ならば、委任のしるしとして節旄という飾り付きの旗を持つのが、外交上のきまりであった。門衛は、そのことを言っていた。
夏候嬰は、門衛を一喝した。
「急使であるぞ!、、、事は、一刻を争う。まさか急使を追い返すのが、お主の職務であるとでも言うのか。吟味などは、後にしろ!」
門衛は、二人の息急いた調子と、やつれた身なりを見て、彼らが本当の急使であると思ってしまった。急使ならば、外交の儀礼の外として扱わなければならない。
急使と称して二人は、まんまと城内に入り込んだ。
漢王は、まず漢軍の副将である曹参の陣営に飛び込んだ。
「曹参!、、、今日は、忙しいぞ。」
「あ!」
叩き起こされた曹参は、漢王の姿に驚いた。
漢王は、曹参と夏候嬰に、直ちに作戦を命令した。
曹参は、否応なしに漢王の味方である。
漢王は、曹参の名を使って、韓信の陣営に入り込んだ。
漢王が突如として韓信の寝所に現れたのは、このような経緯であった。
このときすでに、曹参と夏候嬰は、漢軍を率いて趙王張耳の寝込みを襲っていた。
全くの不意を突かれて、張耳の陣営は完全に包囲された。
韓信のもとを去った漢王は、悠然として張耳の陣営に乗り込んだ。
「― 趙王。兵権の印綬、差し出してもらおうか。」
漢王は、張耳の前に現れて、要求した。
張耳は、震える手で印綬を渡した。
漢王は、漢軍と趙軍の両方の印綬を手に持って、号令した。
「全軍の将官に、告げよ。直ちに我が前に、集まるべし。兵権は、この印綬にあり!」
朝の修武城内は、にわかに騒然となった。
この頃、遠く離れた南の戦線では、漢軍の股肱たちが成皋城を捨てて、めいめいに逃げ出している最中であった。
軍師の陳平は、漢王が城に入るや否や逃げ出したことを聞いて、内心それ見たことかと嘲笑っていた。配下の進言を聞かない罰が降ったのだと、彼は思った。彼は漢王が逃げ出すことを予想して、わざと成皋に入るのを遅らせてゆるゆると進み、無様な遁走を避けることができた。
しかし、その後で漢王が取った行動を聞いたとき、彼は舌を振るって驚いた。
(漢王、身一つで、趙を盗むか。なんという、恐るべき男!)
誰にも守られず、君主の体を他国の本拠地に送り込んで、国を奪ってしまう。
とても、天下を二分する大王の、行動ではない。
(、、、野人!)
漢王は、まさに野人であった。
陳平は、感嘆しながら、漢王の手際を思った。
(もし、彼が兵を挙げて趙の軍を回収しに行ったら、どうであったか。それこそ、趙の思う壺だった。きっと張耳は、ござんなれと河を閉じて、一戦構える態勢を取ったであろう。そして、蒯通は今度こそ趙と楚を、合わせたであろう。その時に、あの韓信が漢王に付いた可能性は、おそらく低かった、、、)
漢王は、誰にも気付かれることなく相手の懐に潜り込み、相手の腹の中で大王であるという事実を使って、兵権を奪い返した。趙は、一粒の猛毒を腹の中にねじ込まれて、死んだ。
それにしても、何という鮮やかな飛躍であろうか。
何という、大胆な権力者であろうか。
その手腕は、始皇帝すら越えていた。
陳平は、このときこそ、観念した。
(敵わぬ!)
自分は、漢王に到底敵わない。
(あの野人には、到底敵わない!― 天下は、彼のものだ!)
もはや、陳平の今後の仕事は、彼を勝たせるまでだ。勝たせて、皇帝にまで仕立て上げるより、他はない。そう彼は、修武から遠い空の下で、思った。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章