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ニ 巨悪ここにあり(2)

(カテゴリ:国士無双の章

― 漢王には、気を付けるのよ。

以前に黒燕が韓信に与えた忠告を、彼は今になって噛み締めるどころか、この男の真の恐ろしさに彼は打ちのめされてしまった。
韓信は、いまや印綬を取り上げられて、無位無官に落とされた。
無位無官の者に、指揮する権限はない。
彼は、呆然としながら、朝の陣営で置いてけぼりにされた。
漢王は、修武城内に駐屯する趙・漢の諸将百官ことごとくを、自らの前に召集した。
印綬を握った漢王は、彼らが考える間を与えず、すかさず組織の原理を発動した。
漢王は、諸将百官の任命権者として、片っ端から更迭を行なっていった。
漢王は、趙の将官すべてを、罷免した。
さらに、漢軍の中で確実に自分に忠誠を誓っている曹参などを除く疑わしい将官もまた、取り除いた。
こうして、張耳と韓信に影響された将官は、一人残らず追放された。
大粛清の任免は、延々と続いた。
終わった時、趙国は完全に漢の傀儡国家と化していた。
漢王は、宣言した。
「中原で、漢はまたしても楚に敗れた。今後、漢はこの趙を本拠地として、項王に当ることとする。余もまた、この趙に本陣を置く。」
このまま居座る理由は、楚と戦うためだけではない。
漢王には、思惑があった。
漢王の狙いは、このとき明らかに張耳と韓信の二人であった。彼らの野心の源を、徹底的につぶすこと。そのことに、彼は全力を注いだ。疑わしい同盟国と強力な配下を骨抜きにすることを、漢王はこのとき項王と戦うことよりも、優先した。大敵に正面から戦って勝てないならば、脇の獲物を喰らえ。それが、漢王の貪欲な勝利への道であった。
漢は、趙国を手に入れて、再び強大となった。
漢王は、更迭を終えた後、再び張耳のもとにやって来た。
漢王は、すっかり表情を改めて、にこやかな長者顔でかつての兄貴分に面会した。
彼は、猫なで声で張耳に話し掛けた。
「趙王― あなたは、ご高齢だ。この際、太子に政(まつりごと)の権を譲られよ。太子には、わが娘の魯元公主を娶わせることにしたいが、如何(いかが)かな?」
漢王は、顔いっぱいに笑みを浮かべて、張耳に提案した。
漢王は張耳を引退させ、太子の張敖を自分の婿にして、かれを一生支配することに決めた。
もはや、勝負はあった。
提案を受けた張耳は、今はもう漢王に笑顔を返していた。
「もったいなき、お言葉でございます。漢と趙とは、唇歯の間柄となって、共に項楚と戦うことを誓いましょうぞ。」
張耳は、慣れた君子流の挨拶で、漢王に答えた。
両者は、笑い合った。
漢王の笑いには、勝者の毒が込められていた。
(残念だったな、張耳。)
張耳の笑いの後ろには、苦い無念が沈み込んでいた。
(ついに俺は、こいつに勝てなかったか!)
任侠の世界で結び付いて以来、長らく続いた二人の虚虚実実の関係は、もとは匹夫の漢王が出世して勝利した。もとは大任侠であった張耳は、ついに漢王に組み敷かれて、終わろうとしていた。
漢王は、次に韓信を呼び出した。
韓信は、重い足取りで、漢王の前に現れた。
「― 座れ。」
漢王は、韓信に命じた。
韓信は、言われるままに、座った。
漢王は、下命した。
「韓信。お前を、改めて趙の相国とする。」
相国、すなわち漢でいえば蕭何の就いている丞相と同じである。家臣としての最高位に移らされたことを、意味していた。
だが韓信は、喜びもせずに、うなだれて答えた。
「承知しました、、、」
漢王は、気にせず命令を続けた。
「相国の名で趙から兵を徴集して、直ちに斉を攻めろ。曹参、灌嬰を副将として付けてやろう。」
横で聞いていた曹参は、朝の発令によって漢の右丞相に昇格していた。
彼は、思った。
(厄介払い、だな、、、)
韓信を、趙から追い出して別の戦に放り出すのが、漢王の真意であると読めた。韓信の名声は、大きすぎる。形だけ栄転させて、彼に群がり集まる野望を散らして挫くことが、この国士無双の軍略家を取り扱う、漢王の最上の方法であった。
曹参は、思った。
(大王にとって、斉との戦など、もはやどうでもよい。おそらく、大王は韓信に戦わせないつもりであろう、、、)
曹参は、漢王の底意地の悪さを、思った。だが、死生を賭けて戦う君主としては、致し方のないことであった。
漢王は、韓信に対して、言った。
「河北の平定、骨折りであった。今後とも過たず、漢のために働け。」
韓信は、ようやく顔を上げて、漢王に言った。
「― 趙国は、疲弊しています。軍を募ることは、できません。」
漢王は、言った。
「趙は、俺の国だ。この国をどう扱うかは、俺が決める。お前が軍を募ることができないならば、一人で斉に行くがよい。お前は、軍人であろうが。戦う以外のことを、考えるな。」
漢王の言葉は、言外に警告を出していた。
彼は、韓信に言った。
「直ちに、斉に向かえ。それまで、俺はこの趙に留まることにする。」
漢王は、そう言い残して、席を立った。
韓信は、下座に取り残された。
彼のところに、これまで漢王の後ろにいた夏候嬰が、歩み寄って来た。
「相国―」
夏候嬰は、力の抜けたような韓信の手を取って、立ち上がらせた。
彼は、韓信を連れて、陣営にまで送っていった。
道すがら、彼は小さい声で、韓信に話し掛けた。
「相国。あなたは、もう私より、ずっと位が上です。ですが、年齢は私の方が上です。それで、どうか年齢の長幼に免じて、私の言葉を、聴いていただけませんか?」
「はい、、、」
韓信は、黙ってうなずいた。
「年長者として、話します。許されよ。」
夏候嬰は、韓信の肩を、ぽんと叩いた。
「君は、強すぎる。そして、弱すぎる―」
夏候嬰は、自分より韓信を励ますつもりなのか、たしなめるつもりか、それとも漢王の家臣として牽制を込めてか、彼に言った。
「それでは、人を利用する漢王に、使われるばかりだ。だが、あきらめろ。残念ながら、それが君の器だ。たとえ無念であったとしても、こんご漢王に勝とうなどと、決して思ってはならない。もし君がそう思ったとき、君は漢王の恐ろしさを、もっと知ることになるぞ。」
そう言った後、夏候嬰は一礼して、韓信のもとを去った。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章