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三 奪われて進む(1)

(カテゴリ:国士無双の章

陳平は、成皋にまで進んだ楚軍の西進を阻むために、漢兵を並べて防禦に当っていた。

守る将兵たちは、このまま項王軍が関中まで突っ切るのではないかと、震えて恐れていた。
陳平は、彼らに言った。
「案ずることは、ない。楚軍の破壊力は確かに恐るべきであるが、彼らが狙う漢王は、すでに趙に逃げてしまっている。楚軍は、勇戦するばかりで戦略を知らない。我が方の広大な戦線を活用して固く守れば、やがて勢いは尽きるより他はないのだ。」
東では、彭越が早くも活動を再開していた。この鼠のような盗賊は、決して死ぬことがない。楚軍は、またも彼に向こう脛を噛み付かれて、悲鳴を挙げることであろう。
陳平は、思った。
(それでも、項王の神威はいまだに衰えていない。彼が率いる江東の強兵は、諸国の恐怖である、、、)
遺憾ながら、漢軍の誰をもってしても、項王とその兵を叩きのめすことができない。
(もし、できるとすれば― それは、ただ一人か。)
陳平は、しかし首を横に振った。
(彼は、用いることができない。もう、彼の役目は、終わったのだ。終わらせなければ、ならない。)
陳平は、いま脳中にある男の名声が、これ以上漢王を翳らせることの政治的な損失を、憂えた。
(漢王は少しも勝っていないのに、彼だけが赫々たる戦果を収め、すでに世の語り草となっている。このままでは、漢を勝たせたのは韓信であるという評判が、世に固まってしまう。それは、何としても避けなければならない。漢は、漢王が受けた天命により、勝つのだ。後世の歴史には、そう書かせなければならない。たとえそれが、真実と違うものであったとしても―!)
彼は、漢王配下の名将として、このまま終わらなければならない。じじつ、彼はいま漢王により実質的な力を奪われて、終わらせられようとしていた。
陳平が憂うその男は、このとき修武の陣を引き払い、一人で北に向かう用意をしていた。
彼の横には、鄧陵子と小楽の二人がいた。
小楽は、漢王の仕打ちに、憤りが止まなかった。
「何という、詐欺師であるか。何という、厚顔の君主であるか!功績隠れもない韓子を、まるで追い出すように、北へ向かわせるとは!」
鄧陵子は、怒る彼の震える肩を、手で掴んだ。
彼は静かに、小楽に言った。
「小楽よ。これが、政治なのだ。政治とは、人間の常の善悪が、通用しない世界。漢王は、我らよりもより多く、政治家であった。」
小楽は、やり場のない怒りの余りに、声を挙げて泣いた。
彼は、涙声で言った。
「才あり、力あって、世に名を高めると、人は善を捨てなければ、ならないのですか!、、、鄧陵子、そうなのですか!」
鄧陵子は、泣き続ける彼の肩を持って、目を閉じた。
韓信は、彼らと声を交すこともなく、うつむいたままで、彼の行李を荷造りしていた。
行李の中には、彼が作成した斉国の地図が、何十枚も詰め込まれていた。斉は趙を上回る大国で、貯える兵数も数十万を数える。しかし、以前に項王の侵攻を受けて、国土はひどく痛んでいた。その国に、韓信は兵を進めなければならない。
韓信は、自分に向けて語る調子で、つぶやいた。
「斉は、以前の侵略の遺恨がある以上、楚と結ぶ恐れはおそらくない。かといって、漢とも結ばない。それは、国主一族の田氏が、他国を見下しているからだ。放っておいても、害はない。もし漢が取りに行けば、田氏をかえって敵の楚に、走らせるばかりであろう、、、」
鄧陵子が、声を挟んだ。
「あなたは、それでも行かれるのか。」
韓信は、答えた。
「致し方、ない。私は、戦うより他になすべきことがないのだ。」
彼は、漢王の言葉を、思い出した。
― お前は、軍人だ。戦う以外のことを、考えるな。
韓信は、思った。
(私は、いつしか自分のことを、考えていたのか。私の技は、確かにこの世に何ほどかの役に立っている。私は、だから軍人として、生きている。私は、それ以上のものは要らない。要らないにもかかわらず、私はいつか違う道を進んでいた、、、)
彼は、漢王に不意を突かれたことを、後悔した。
しかし、不意を突かれたのは、当然の結果であった。彼は、漢王に何も備えていなかった。
(愚かな、ことだった。)
韓信は、君主の貪欲と嫉妬心というものを、これまで知らずに過ごして来た。今、彼はそれらを思い知らされた。知らなかった自分が、悪いのである。
「致し方、ない、、、」
韓信は、両手で荷を固く結びながら、もう一度つぶやいた。
鄧陵子は、哀悼の目をして、肩をすぼめるばかりであった。
小楽は、悔しげに言った。
「一番上の奴だけが、嫉妬しても許される― それが、政治なんだ!」
彼は、汚いことを聞きたくないという素振りで、両耳に手を当てて、震えるように首を振った。
韓信は、明日には修武を出なければならなかった。
これから北へ向かい、兵を募って、斉との境である平原津(へいげんしん)に向かう。
しばらく起居していた陣営の宿舎も、今日のうちに全て片付けた。
蒯通は、漢王が現れて以降、姿を見せなくなった。
(あいつにも、愛想を尽かされたか―)
韓信は、それも致し方のないことだと、思った。漢王を警戒すべしという彼の言葉は、正しかった。かといって、彼の薦めのとおりに、漢王から離反することなど、韓信にできることではなかった。だから、致し方のないことであった。
韓信は、夕陽の落ちる室内に、一人で佇んだ。
窓から挿す秋の陽は、長くて侘しかった。
落ちた葉を踏む音が、聞こえた。
音は、しかし窓の外からでは、なかった。
葉を踏んだと思った音は、床に散らばり重なる竹簡から鳴っていた。彼がこの室から発した下達の文書の、名残りであった。
韓信は、振り向いた。
「― 黒燕。」
現れた黒燕は、夕陽を受けて頬を赤く染めていた。
彼女の目は、頬の色とはまるで違って、暗く沈んでいた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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