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三 奪われて進む(2)

(カテゴリ:国士無双の章

彼女の目には、恨みの色があった。

黒燕の韓信への警告は、空しいものとなった。
韓信は、ついに彼女の期待を裏切ってしまった。
韓信は、彼女に目を合わせることが、できなかった。
「― 申し訳、ない。」
彼は、謝る言葉を、ようやく搾り出した。
黒燕は、彼の陳謝に答えず、己のことを告げた。
「私は、あの男に媚びなければなりません。」
韓信は、空気が冷えた気配を感じた。
「媚びる、、、?」
彼の問い質しに、彼女は答えた。
「我が義父は、もう全てを諦めて、心死にました。義父はもはや、自らの死後に嫡子が安楽でいることを望む、老醜の者となりました。彼は、漢の内で嫡子の張敖が亡ぼされぬように、私に行けと命じたのです、、、漢王の、後宮に。」
韓信は、彼女の言葉に、震えて驚いた。
彼は、声を詰まらせながら、言った。
「それを、、、受けたのか?君は、入内する命を、受けたというのか?、、、」
黒燕は、下を向いて、唇を噛み締めた。
彼女は、声色を高めて、言った。
「― 私に、何ができるというの?」
彼女の声も、震え始めた。
「たとえ老醜に落ちようとも、私はこれまで義父に育てられました。彼の言葉を、拒むことなどできない。彼は、己の家が繁栄し続けることを、望んだのです。この世の者が、誰でも望んでいることです。彼は、嫡子の器量がまるで足りないことを、憂いました。それで、養女の私を使おうと思ったのです。私を漢王に差出し、私が漢王の寵姫になれば、漢王の張家への覚えは、ますますめでたくなって、、、」
彼女は、それ以上続けることができずに、声を挙げて泣き出した。
韓信は、顔を蒼ざめさせた。
黒燕は、泣きながら叫んだ。
「負けると、こうなる!負けたから、こうなるのよ!なんで、負けたのよ!、、、」
勝った者には、全てが差し出される。
下に組み敷かれた者たちは、命を守り、安楽を買うために、上に立つ者に媚びて快楽を贈る。いつの世にも繰り返される、権力の姿であった。だから、欲に心をたぎらせる者は、誰でも上に立ちたがるのだ。漢王は、韓信と違って、それを知っていた。
韓信は、うろたえて言った。
「そんな、ばかな、、、どうして君は、そんな義父の命を受け入れるんだ!」
黒燕が媚びるなど、韓信には到底考えられるものではなかった。
彼女は、自由な心の人であった。
彼女の年齢に似合わぬ深い智恵は、韓信を感嘆させた。
彼女は、常の人には見られない、底知れぬ魅力があった。
そのような人が、これから君主に媚びて、生きなければならないとは。
後宮という、住む者が嘘の言葉しか話さない、全ての者が心を閉ざした世界に入らなければならないとは。
韓信もまた、声を高くした。
「なぜだ!、、、君は、逃げないのか!」
しかし、黒燕は繰り返した。
「、、、私に、何ができるというの?」
彼女は、言った。
「もう、今の私には、希望がない。私の一生は、終わったのよ。今は、この世の掟が命じるままに、義父の言い付けに逆らわず、従うだけ。それが、孝の掟。私は、心を閉ざし、掟のままに体を動かすだけ、、、」
韓信は、冷たく語る彼女の言葉を聞いて、何も返すことができず、うつむいた。
黒燕は、韓信に言った。
「よくもあなたは、負けたもんだ― 漢王なんかに。」
涙を貯めた彼女の目は、韓信に厳しかった。
「あなたは、英雄じゃない。私は、今のあなたなんか、知らない。あなたは、ちょっと賢いだけの孺子(こぞう)だね、、、負けて、当然だ。」
韓信は、彼女の非難を受けて、崩れてしまいたい心地に陥った。
彼は、うつむいたままで、言った。
「致し方、なかった、、、」
黒燕は、声を荒げた。
「致し方、ない?― 使われて、踏み付けられて、致し方ない?あなたは、何のために生きているの!あなたに、どれだけの人が期待していたか、分かっているの?」
世に秀でた者は、それだけで人に罪を作る。
韓信は、自分の都合で進退をしようとした。しかし、彼を取り巻く世は、すでにそれを許さなかった。彼は、人を落胆させてしまった。すでに、あまりに多くの人を。
黒燕は、もっとこの世間知らずの天才を、責めてやろうかと思った。
しかし、怒りのままに別れてしまうのは、彼女にとって悲しすぎた。
黒燕は、韓信に聞いた。
「― これから、あなたはどうするの。」
韓信は、答えた。
「北へ、向かう。斉を、攻めに行く。漢王の、命だ。」
黒燕は、言った。
「漢王に使われて、捨てられるのが、あなたの道ではない― それは、私の知っている国士無双ではない。国士無双は、もっと大きくなるべきだ。」
あの徐は、袖で涙を拭いた。
見事な、錦繍を纏っていた。これから、入内するからではない。最後に、韓信に見せたかった。
彼女は、韓信に近づいて、彼の高い上背に向けて、首を伸ばした。
韓信は、柔らかい唇の感触を感じた。
彼女の首筋から漂う、ふくよかな香の匂いを、彼は感じた。
彼は驚きながらも、何と素晴らしいと思った。
香の匂いについて、そんなことを彼はこれまで、思ったことがなかった。
唇を離して、彼女は囁いた。
「もし、私を取り戻したかったら、、、韓信。」
彼女は、男の胸にもたれかかって、囁き続けた。
「漢王、項王の二人に、立ち向かうのよ。あなたが、この世で非凡な人間だということを、見せるのよ。戦って、並び立ちなさい。その時、私は、あなたのところに、戻って来る、、、必ず!」
秋の暮れる夕陽が、二人の背中に落ちていた。
北の戦場では、枯れ果てた冬が待っているであろう。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章