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四 凡なる魂(1)

(カテゴリ:国士無双の章

漢王は、修武の支城である小修武の南に陣を置き、趙から奪った兵を用いて、項王との再戦に臨んだ。
漢王は河水(黄河)を渡ろうとしたが、郎中の鄭忠という者の進言に従って、しばらく大河を壕として正面から当ることを避けた。

漢軍は、再び項王を遠くに釣る兵を出した。
廬綰・劉賈に命じて兵を率いさせ、白馬津から南岸に渡って梁の地に侵入させた。
梁では、以前から彭越の軍団が、項王軍の背後を荒らしまわっている。
廬綰らの軍は彭越軍と合流して、楚軍を襲撃した。
この方面で、楚軍はまたも敗れた。たちまち梁の十余城が、漢の手に陥ちた。
項軍は、またしても東に兵を移さなければならなくなった。
「行ったり、来たりであるな、、、」
漢王は、自分と項王が同じことを繰り返しているのに、苦笑した。
項王が東に取って返すときが、再び南下する機会である。
だが、南下したとして、東西のどこに、守備線を引くべきであろうか?
「― 鞏(きょう)・洛の間しか、ないでしょう。滎陽・成皋の線では、また項王が戻って来れば、敗れるばかりです。」
再び漢王の幕下に舞い戻った軍師の陳平は、進言した。
鞏・洛では西への後退となるが、漢の版図は縦に深い。険阻な土地で、強い項軍を防いで疲れさせた方が、よい。
(また敗走ともなれば、どこかで高笑いする奴が、いるだろうし、、、)
陳平は、この時さすがに慎重となった。
漢王も、諸将も、軍師の言をやむなしと思い、一致しようとしていた。
しかし、居合わせた一人の者が、立ち上がった。
「成皋、奪い返すべし。滎陽、進み取るべし。漢が退くのは、誤りです。」
一座の者たちは、振り返って声の主を確かめようとした。
声の主は、朗々とした声で自説を語った。
「臣、聞くところによれば、天の天するところを知る者は、王事成るべし。天の天するところを知らざる者は、王事成るべからず。かの敖倉には、天下が転輸して久しく、臣聞くにその下は殷(さか)んに有りて、藏(かく)す粟(ぞく)は甚だ多し。楚人は滎陽を抜くも、敖倉を堅く守らず、東に引きて適卒(じゅつそつ)をして成皋を分守せしめ、、、」
声の主を確かめた一座の者たちは、揃ってため息を付いた。
声の主は、周囲の冷ややかな視線など気に止めず、ありったけの自説を展開した。
力説したのは、広野君酈生であった。
彼は、得意の名調子をここぞとばかりに披露して、説得しようとした。
「、、、と、いうわけです。」
彼の演説は、終わった。
陳平は、彼の演説を要約した。
「要は、退けば漢は弱みを見せることになるから、進めとおっしゃるわけですな?」
酈生は、胸を張った。
「敖倉さえ取り返せば、数年の持久のための食を得ることができます。項籍の武勇ごとき、何の恐れがありましょうか。」
陳平は、思った。
(この先生、にわか兵法を持ち出したか、、、)
持久戦の必要条件である食糧に思いを致したのは、上出来である。
かつ、項王は敖倉をよく守らず、取った城市の守備はぞんざいで、彼の戦いは持久戦を想定していない。酈生は、これらの状況に目を付けて、自説をひねり出したのであろう。
陳平は、しかし彼の説を歯牙にも掛けなかった。
(それが、項王の戦い方なのだ。守らず、こちらの突出を速戦して叩き、撃ち亡ぼす。我が軍が滎陽・成皋を取り戻すのは容易いが、取ったところでまた同じことの繰り返しだ。今は項王の勢いを挫くことが必要なのに、この先生はしょせん読書人であるな。)
酈生が説く間、漢王は、鼻をほじりながら、聞いていた。
いや、聞いてすらいなかった。
すでに、彼の言には一切の価値がないと、主君は高をくくっていた。
「ああん―?言いたいことは、終わったか?、、、ならば、さっさと出て行け。」
漢王の言葉に、周囲から失笑が上がった。
一座の中には、朧西都尉の酈商もいた。
彼は、またも兄が諸将から侮りを受けたことを、忸怩(じくじ)していた。
兄の軍中での評価は、最近下がる一方であった。
使者としての役目も思うように成功せず、出した献策は的外れと笑われ、無駄に粟を喰らう者が一人いると陰口を叩かれていた。
弟の商から見れば、兄はまごうかたなき善人であった。
少しくつむじ曲がりで、世間と調子を合わせることができず、歳を取るまで一人で高陽の郷里の中に埋もれていた。彼は、酔狂先生と呼ばれ、誰にも相手にされなかった。
しかし、ただ一人の肉親として彼の側にいた弟は、この哀れな兄が私心も我欲もない人であることを、知っていた。彼は成長して、そのような人間はこの世に滅多にいないことを、知った。
それで、酈商は兄のことをいまだに慕っていた。弟は、兄が立派な押し出しとは裏腹に、大した才能のない人物であることを、とっくに分かっていた。それでも、彼の人生が華やかなものとなって欲しいと、常に願っていた。
その兄は、皆から笑われても、いまだ去らずに立っていた。
彼には、まだ申すべき言葉があった。
酈生は、漢王に言った。
「いま趙・燕はすでに定まり、斉だけが去就を明らかにしておりません。どうか大王の明詔を奉じて、臣を斉に使わされよ。斉王田廣を支える相国田横を、臣が説き伏せて漢に降伏させましょう。」
一座の者は、一転して目をみはった。
「斉?」
漢王は、きょとんとして聞き直した。
酈生は、王に問われて繰り返した。
「斉です。斉を、漢の東藩とするのです。斉は方千里の大国で、大河と海に囲まれ、将軍の田間は二十万の兵をもって歴(れき)に駐しています。戦って、にわかに取ることはできません。ゆえに、臣が天下の趨勢を田横に説いて、戦わずして漢に靡かせましょう―」
すでに、漢は韓信に命じて斉を攻めさせようとしていた。酈生もまた、それを知っていた。
それで、彼はかの大国を漢のために陥とす大功を、いま名誉挽回の策として提案したのであった。
漢王は、彼の言葉を聞いた後、しばらくの間を置いた。
小さく、ため息を付いた。
それから、周囲を吹き飛ばすかのような、大笑いを始めた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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