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四 凡なる魂(2)

(カテゴリ:国士無双の章

漢王は、笑い転げながら、言った。

「あんたが、田横を説得するだと!斉を、降伏させるだと!、、、寝言は、寝てから言え!」
漢王の笑いは、止まらなかった。
酈生は、真剣な表情のままで、言った。
「かの田横をはじめとする田氏一族は、いずれも豪傑で士人をよく厚遇し、賢明なる評判は他国にも鳴り響いております。彼らは賢明ゆえに、天下の状勢を説けば、必ず心を動かすことでしょう。臣は、それを確信しております。」
田横は、一族の田儋(でんたん)、田栄を受け継ぎ、田栄の遺児の田廣を立てて斉を保っていた。彼ら田氏一族は以前から名望高く、田氏三代の者たちはいずれも賢者であると広く評判が知れ渡っていた。酈生は、その評判ゆえに、田横に道を説けばきっと分かってくれると、考えたのであった。
漢王は、笑いのあまり、涙を流して引きつりそうな声を出した。
「豪傑!、、、賢明!、、、そうだ、そうだ、田横は、賢明な豪傑だ。先生、あんたまで、まんまとだますぐらいだからな。いや、あんただから、だまされるのか。うははははは!」
漢王は、足をばたつかせて、飽きるほどに笑い飛ばした。
ようやく飽きたと見えて、漢王は倣岸な表情に戻った。
彼は、酈生に言った。
「斉の田横はな― 任侠気取りだよ。」
任侠気取り。
つまり、漢王と同じ人種であると、彼は言いたいのであった。
彼は、続けた。
「任侠気取りだから、あちこちに顔を売って士人を優遇してやることを、商売としている。それで、士人に評判がよいのさ。だが奴らの行動は、全て計算づくよ。賢者という評判で名を高めるのも、士人を味方に引き入れるのも、ぜんぶ己の力を作るための策略だ。だから田氏三代で国を盗み、斉の宗家を引きずり降ろし、他国を愚弄し続けて頭を下げず、自国だけを保って高みでうそぶく。それが、田氏一族の真の家訓というものだ。先生、あんたがのこのこ行って、国を譲るような殊勝な人間ではないぞ、田横は!」
漢王の批評は、辛辣であった。
漢王は、同じ人種である彼らの本性を、底まで見抜いていた。
この世で賢者として評判が聞こえている豪傑たちの、正体とは。
(張耳も、陳餘も、士人を厚遇して顔を売った。それは、ぜんぶ宣伝のためだ。取り巻きが評判を撒き散らしてくれれば、やがて世間をだます力となる。だます力が、己を国主に持ち上げることを、奴らは狙っている。奴らの内実は、利におそろしく貪欲だ。そんな奴らでなければ、世に評判など立ちはしない。それが、正体だ!)
漢王は、自分のことを思っていた。一国を盗み取るような豪傑が、本当に評判どおりの善人であるなどと考えるのは、酔狂先生のようなお目出度い凡人だからであった。
当の先生は、引き下がらず漢王に言った。
「大王。そのような疑いで、国主を見てはなりません。いやしくも、大国の権を握る者であるならば、民の幸福のために道を説けば、必ず心を動かすでしょう!」
漢王は、またも笑いがこみ上げて来そうになった。
「民の、ため?、、、奴らが、民のために動くか!何の利も己に返してくれない、民のために!」
酈生は、真剣な表情をさらに増して、言った。
「動きます。人の心には、仁義の善があるのです。臣は、相国田横が、仁義の心を持っていると、信じます。」
漢王は、とうとう再びけたたましく笑い出した。
「田横が、仁義で動くものか!、、、奴が動くとしたら、利と脅迫だけよ!」
ここまで、陳平は両者のやりとりを聞いて、口を挟まなかった。
いま、彼の脳裏に、ひらめくものがあった。
陳平は、やおら立ち上がった。
「― 酈生の言、用いるべきです。大王、よろしく彼に詔を降し、使者として斉に遣わされよ。」
彼は、漢王の側に駆け寄り、耳打ちして長く語り掛けた。
漢王は、軍師の言を聞くたびに、ふむふむとうなった。
軍師が語り終わると、漢王の表情は変わった。
彼は、酈生に向き直って、申し付けた。
「気が変わった、、、先生、斉に行かれよ。」
酈生の策は、一転して主君に受け容れられることとなった。
酈生は、素直に主君に深く拝礼した。
「士人として君命を辱めぬよう、一命を賭して任務に赴きましょう―」
漢王は、よしよしとうなずいた。
「漢の正使として、最高の様式を整えよう。黄金も、どっさり持っていくがよいぞ!」
酈生は、言った。
「黄金よりも、斉人に贈るべきは、大王の威徳です。」
漢王は、そうかそうか威徳かと、上機嫌で彼の言葉に答えた。
弟の酈商は、一座の中で事の顛末を見ていた。
彼は、大王から下された兄の使命に、激しい不安を覚えた。
軍議が終わった後で、酈商は兄の居室に赴いた。
酈商は、言った。
「兄上。今回の使節は、必ず裏があります。兄上は、利用されるのです。」
酈生は、言った。
「小孩子(こぼうず)。いやしくも主君を、疑うものでないわ。君命は、受ければ謹んで従うのみだ。」
酈商は、いまだに幼少時代の呼び方で自分に話し掛ける兄に、心ならずも苦笑した。
しかし、苦笑はすぐに腹の内に収めた。
彼は懸念して、言った。
「大王は、最も策略に長けた君主です。彼は、配下を自在に操る術に巧みです。大王が今回兄上を使者に登用したのも、きっと策略あってのことです。私は、何やら胸騒ぎがするのです。それを兄上は、見たところ喜んでお受けなされている。あまりにも、素直に過ぎます。」
酈商とて、漢の一将であった。
兄が国のために使命を尽すことは、喜ばしいことであった。しかし、彼は兄が君主に使われて、それをお目出度く受け入れているかのような姿が、苦しかった。しょせんそれだけの器の人物だと割り切ってしまうことは、長年を育てられた人に対して、できるものではなかった。
弟は、眉をひそめて兄に対した。彼の表情は、懸念の色を見せていた。
しかし対する兄は、違った。
兄は、弟にやがて訥として語り始めた。
「もし、漢王がいなければ―」
語る彼の表情は、老いて真剣であった。
酈商は、昔の時代に彼から諭(さと)されたときのように、思わずかしこまった。
酈生は、続けた。
「もし漢王がいなければ、この高陽の変人は、生涯何も為すところなくして、空しく朽ち果てていたであろう。私は、結局世を渡るがごとき才能など、なかった。なかったことに気付いたとき、すでに私の人生は終わっていた。悔いても、悔やみ切れない。そんな私に、漢王は働く場を与えてくれた。何という、王の大恩であろうか。何という、我が天命であろうか?」
彼は、己の人生が漢王によって少しだけましなものとなったことを、疑いもなく喜んでいた。どうせ、朽ちていくこの身であった。彼は、弟が思うより以上に、自分のことをとっくに分かっていた。漢王の下に星のように集う名将智者たちに比べて、自分がものの役に立たない人間であることを、気付かずにはおられなかった。そして気付いたとき、彼は漢王の下で私心なく人生を終えようと、思い立った。無欲が、弟も認める彼の誰にも負けない、美徳であった。
酈生は、若くて覇気のある弟に向けて、言った。
「ゆえに私は、たとえ使われたとしても、漢王のために使命を果たすより、他はないのだ。それ以外に、私が生きる道など、残されておらぬ。私は、命尽きるまで、天命に生きて、君命を辱めないだろう。それで、よいのだ。お前には、分かってほしい―」
酈生は、語った。
それは、人生の終わった老人が、人生をこれから生きる青年に語る、口調であった。
酈商は、神妙となった。
(もう、覚悟しておられたか、、、)
彼は、兄のお目出度さに一時憤った自分を、恥じた。
口をつぐんだ弟に、酈生は、言った。
「幸い、私にはこの歳になって、子も生まれている。一家の長兄として後嗣を持つことが出来たのは、儒者として義務を果たしたことだ。もはや、悔いもない。我らが家のことは、今後お前に頼みたい。お前は、私よりもよほどに、世に生きる術を知っている。よろしく頼むぞ― 商よ。」
兄は、ついに弟のことを子供扱いせずに、実名で呼んだ。
弟は、二人して陋屋で過ごしていた昔の時代のように、素直にうなずくばかりであった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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