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五 大風に乗って(1)

(カテゴリ:国士無双の章

このとき、年代記で見れば、漢の四年になろうとしていた。前にも書いたように、漢の暦は秦暦をそのまま受け継いだもので、冬の初めの農暦十月が、年始となる。

あくまでも後世から遡った年代記であるが、漢の元年は漢王劉邦が関中に入って秦王子嬰を降伏させた年に、割り当てられる。つまり秦の滅亡から、三年が経った。
常の王朝の歴史から見れば、三年などは歴史の趨勢を変えるには、あまりにも短すぎる。三年間史書には何も事件が書かれない時ですら、おそらく珍しくない。
しかし、今の三年の年月には、恐ろしいほどの激変があった。
もし一人の者がいなければ、これほどの変化は起らなかったであろう。
前代未聞の英雄、項王は、歴史の流れを一人の力でねじ曲げて、結果として天下を大乱に陥れた。
関中に入って漢王を屈服させ、咸陽を焼いて破壊した。そして西楚の覇王として、新しい帝国を開いた。これらが、漢元年のうちに起った。
漢元年は、それだけで終わらない。項王は義帝を殺し、諸国はたちまちに叛いた。項王が討伐に奔走しているうちに、諸国の中で最強の漢王が、山深い漢中から飛び出した。韓信の献策を受けての、出撃であった。天下は、一年のうちに大戦乱となった。
彭城に入った漢王を、項王は急襲して散々に破った。漢王は逃げて、中原に籠った。それから、漢と楚との激しい攻防が始まる。攻めて、攻め返して、二年が過ぎた。
その間に、韓信は河北の諸国を全て平定してしまった。漢王は韓信の功績を奪って諸国を漢に編入し、すでに漢は天下の大半を押さえることとなった。楚漢の激しい攻防は、三年を費やしてようやく熟しようとしていた。
項王は、相変わらず自分のための強兵たちを率いて、向かうところ決して敗れなかった。
しかし、明らかに彼は、追い詰められ始めていた。
中原で漢王を倒そうと思えば、東で彭越が背後を荒らしまわった。やむなく東に取って返せば、漢王は再び勢いを盛り返した。たった一人では、広大な戦線の数多い敵を倒すことができなかった。
すでに、楚の同盟国は皆無であった。
一度は武勇により屈服させたはずの諸侯は、いなくなってしまった。韓信が、諸侯を撃ち滅ぼしてしまった。かつての盟友であった黥布は、漢に走った。
戦略を練る者もまた、いなくなってしまった。
亜父范増が世を去ったことは、項王にとって不幸であった。もう誰も、劣勢を挽回するための経綸を項王のために示す策士は、現れなかった。
いまや項王は、己の武勇だけを頼りにして戦い続けるより他に、なすところがなかった。
いま彼は、陣営で虞美人と共にあった。
彼女は、転戦する項王にずっと付き従っていた。項王は席を温める閑さえなく、愛馬の騅を駆って大陸を走り回った。まるで、周囲全ての人間にからかわれて、いきり立って挑み掛かる少年の喧嘩のようであった。
虞美人は、そのような項王に、離れず付き従っていた。
「草木すでに黄落し、冷気は地に落ちる― 厭わしい、季節だ。」
項王は、虞美人を横に座らせながら、語った。
虞美人は、彼に聞いた。
「また、戦うの?」
項王は、答えた。
「やむをえない。私しか、戦える者はいない。」
彭越に合流した漢軍が、梁の城市を次々に陥としている。
また、一撃を与えなければならない。
「漢王は、またいずれ南下して来るであろう。そのときには、私は再び舞い戻る。私はいつか必ず、漢王を倒す。倒さなくては、ならない。今の私は、それだけを望むのだ―」
項王は、語気を強めて、語った。
しかし、虞美人は彼を見て、思った。
― あえて、狭くなってしまった。
たった一人の人間を倒すことが、彼の生き方のはずがない。
項王とは、もっと偉大な英雄のはずであった。
虞美人は、彼の少年のままの稚気な心を、誰よりも愛していた。少年のような心に、無限の力を持つ男。そのような項王は、もっと楽しい創造を、心のままに行なってもよいはずであった。彼にしか、できない夢のような事業を。地の果てまで進み、新しい都を築き、地上の全ての住民を一つにまとめて、古いしきたりを一掃する。以前は、二人して夜ごとに夢のようなことを、語り合ったものであった。項王が奇想天外な夢を描けば、虞美人ははしゃいで彼を煽る。そのような日々を、過ごしたものであった。
しかし、今の項王は、漢王を倒すことだけに執着していた。
少年のままの心は、強大な敵に釘付けとなっていた。
項王にとって、漢王はまるで夢を壊す大人の、代表のようであった。彼は、項王とは相容れない一切のものを、一身に集めていた。だから、項王の少年のままの心は、大人を憎むがごとくに、彼を憎むようになった。漢王が勝つか、自分が勝つか。項王にとって、勝負は二つに一つとなった。
項王は、言った。
「私は、誰にも負けはしない。漢王は、私を陥れようと、策略を使う。だが、策略などに私は負けはしない。どうして策略などで、私を倒すことができようか―?」
虞美人は、言った。
「もう、何も言わないよ。あなたは、この世で進むだけ、進んだ。今さら、引き返すことなんかできない。私は、ずっとあなたの側にいる、、、あなたの、命尽きるまで、、、」
項王は、虞美人にもたれかかった。
「信じられるのは、お前だけだ、、、」
虞美人は、項王の頭をやさしく愛撫した。
彼女は、しばし言葉を止めた。
膝の上で安らぐ項王は、相変わらず少年のようであった。猛虎であり続ける覇王にとって、少年に戻ることができるのは、もう愛する人の膝の上、ただそれだけであった。
彼女は、愛する男にこれ以上未来がないことを、分かっていた。
分かっていても、彼に走らせるより他に、何ができるだろうか?
長い沈黙の後、虞美人は、ようやく口を開いた。
「― 私たちが死ぬ時を、考えてごらん。」
これまで、言わなかったことであった。
項王は、しかし恐れる気配も見せなかった。
虞美人は、聞いた。
「一緒に、死ぬ?」
項王は、悲しい目をした。
それから、言った。
「だめだ。あなたを道連れなど、できない。」
虞美人は、言った。
「私一人を残す方が、残酷じゃないか。」
項王は、膝の上で首を振って、否定した。
「どうして私が、お前に死ねと言える?どうして?どうして?」
何という、項王の矛盾。
眉一つ動かさずに、万人を殺すのこの覇王が、虞美人ごとき賤しい妾一人に死を命じることが、できない。
虞美人は、その心が嬉しかった。たとえ暴虐と罵られる男であっても、彼女にとってはかけがえのない人であった。
「私が、悪かった。ね、もっと楽しいことを、考えようよ、、、」
虞美人は、項王に言った。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章