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六 楚人の思惑(1)

(カテゴリ:国士無双の章

一時の華やかな時間は過ぎて、楚軍と項王は現実に立ち向かわなければならなかった。

梁の地では、彭越が我がもの顔で往来し、楚の背後を食い破っている。
項王は、これを討たなければならない。
だが討つために兵を進めれば、漢王はきっと南下して来るであろう。
「南下して来た時が、彼奴の首を刎ねる時だ!」
彼は、彭越を討つために東進し、漢軍がやって来れば神速で引き返して、叩きのめすことを考えた。
「― 如何にすれば、漢軍をおびき出すことが、できるでしょうか?」
項王は、季父(おじ)の項伯に聞いた。
項伯は、亜父范増の後を承けて、楚軍の戦略を担う役目を引き受けていた。
項伯は、甥の問いに答えず、代わりに彼に言った。
「籍よ。彭越と和睦して、かれに梁を与えるがよい。」
項王は、耳を疑った。
「、、、なんですと?」
項伯は、言った。
「彭越は、漢に忠誠を誓っているわけではない。奴は単に、土地が欲しいだけなのだ。漢は、彭越に対して、梁一国を切り取り次第自由にしてよいと、申している。奴の戦い方は、盗賊の流儀だ。お前では、たとえ一時蹴散らすことができても、決して息の根を止めることはできない。ゆえに、和睦するべきだ。彭越が敵対している限り、奴に糧道を断たれて、都の彭城すら危くされる。これでは、とても漢軍と戦えない。」
実際のところ、彭越はこれだけ楚軍を苦しめておきながら、ひそかに項伯に向けて取引を打診していた。
― 漢よりも、もっと多くの恩賞を与えてくれるならば、楚に鞍替えしてもよいぞ。
彭越は、漢楚両国の足元を見透かして、調子に乗っていた。
そして、楚がもし我が申し出を断るならば、倍にして痛い目に会わせるぞと、脅しも付けていた。
欲のためには、信義も顧みない。
それが、一国一軍の長たちの、真実であった。
項伯は、甥に言った。
「籍よ。お前の武勇だけでは、もはや漢を倒すことはできない。すでに漢は天下の大半を抑えて、今後いくらでも持久することができる。我が楚は四方に敵を抱えて、このままでは疲弊するばかりとなろう。彭越は盗賊ゆえに、利を食らわせれば靡く。籍よ、彭越との和議の件、考えてみるがよい―」
しかし、季父の言葉を聞いた項王の表情は、みるみるうちに怒りに染まって行った。
項王は、絶叫した。
「彭越!、、、楚漢を、両天秤に掛けているのかっ!」
彼は、彭越を八つ裂きにしたい衝動で、身を震わせた。
項王は、怒りの余り、季父に怒鳴り散らしてしまった。
「手に負えないから、土地を与えて手なずける。どうして、あのような禽獣に、そこまで媚びなければならないのですかっ!、、、あの禽獣が、一国の王?許せぬ、許せぬ、絶対に、許してはならぬ!」
もう、それ以上彼は、季父の言葉を聞こうとしなかった。
「籍!」
項伯の呼び止める言葉も、彼には届かなかった。
項王は、足早に軍議の席を立ち去った。
軍議の席中には、呂馬童もいた。
彼は、項伯を無言で見据えていた。
呂馬童は、この季父のことを、次第に疑い始めていた。
(彼の心中は、怪しい、、、)
項伯は項王の近親であるから、項王は彼を疑うことはなかった。
しかし、呂馬童の見る目は、主君と違った。
(彼は本当に、楚のことを思って動いているのであろうか、、、彼は、漢に近い。)
亜父范増の死後、楚軍の後方を担う者は、彼しかいなかった。
しかし、呂馬童は、このまま項伯だけに外交を任せていたならば、楚軍が勝てるのかどうか危ぶんでいた。
(楚軍は、孤立している。すでに、大王の武勇だけでは取り戻せないほどに、四方を敵に回している。このまま何もしないでいては、、、果てる。)
彼は、最近思案していたことを、項王に告げようと思い立ち、席を立った。
項伯には、あえて言わないことにした。
呂馬童は、肩を怒らせて歩く項王に、追い付いた。
呂馬童は、言った。
「大王、、、今のままでは、我が軍に未来はありません。」
項王は、振り向いた。
怒鳴り付けられることを覚悟していたが、呂馬童の期待に反して、項王は怒りの色を見せなかった。
項王は、言った。
「だが、、、だが、彭越などと、私は取引できない!」
あっちこっちで敵を叩いては逃げられるよりは、敵の一人を味方に引き入れた方がよいことぐらいは、項王にも分かっていた。だが、よりによって彭越では、彼にとって悲しすぎた。何のために、戦っているのか。心に許せない男に美味い汁を吸わせるのが、戦いの結果なのか。
項王は、悲しげに言った。
「私は、そんなことのために覇王であるのでは、ないはずだ!」
呂馬童は、言った。
「確かに、彭越などは、論外です。かれは、漢王と組むのが、似合いです。」
彼は、項王に言った。
「― あなたと組むべき男が、斉にいます。」
項王は、彼に言った。
「斉?」
斉は、国主の田廣と、それを支える相国の田横の国であった。
項王は、言った。
「田横は、田栄の実弟ではないか。お前は、私にあの一族と、組めというのであるか!」
彼は、とんでもないと頭を振った。
しかし、呂馬童の言葉は、違った。
「違います!、、、田横では、ありません。」
項王は、聞いた。
「ならば、誰だ!」
呂馬童は、言った。
「― やがて斉を奪う、漢将韓信であります。」

          

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