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五 大風に乗って(3)

(カテゴリ:国士無双の章

彼は、大いなる幻影を、瞼の裏に描いた。

あの天を吹きすさぶ風に流れる雲と共に、遠くまで遠くまで、飛んで行く自分。
やがて、その魂は四海を巡り終えて、郷里に帰り着くであろう。
彼の郷里とは、叔父と共に少年時代を過ごした、下相(かしょう)の城市であるか。
初めて健児たちと共に兵を挙げた、江東のうら淋しい風景であろうか。
それとも、彼のための都、彭城なのであろうか。
あるいは、それとも、、、?
項王は、ゆっくりと目を開いた。
彼は、虞美人に微笑んで、言った。
「― 私は、いずれこうありたいものだ。」
虞美人は、声を大いに明るくして、言った。
「さすがは、私の王!、、、素晴らしい。さっきの歌よりも、ずっといいよ!」
項王もまた、大いに笑った。
「今は、歌の中で夢を描こうではないか、、、ああ。なんという乾いた風!」
風が陣幕の内を訪れて、天蓋を細かく震わせた。
二人は、居ても立ってもいられず、外に出た。
陣営は、高所に置かれてあった。
二人の立つ場所からは、地平線の限りまでを見渡すことができた。空気は乾いて、翳るところすらない。この風景を見れば、本当に誰でも四海を越えて、飛んでいけそうな心地になる。
「たぶん、この大地は、丸い玉のようなのであろうな。」
項王は、言った。
虞美人は、彼がまた不思議なことを言い出したのを、面白がった。
「じゃあ、人は、玉の上に乗っているとでも、言うの?」
項王は、言った。
「人はあまりにも小さすぎて、気付かないのだ。だから、あの見晴るかす向こうにどんどん進んで行けば、やがてぐるりと巡って、戻って来るだろう。それゆえに、風は吹いて去っては、または戻って来るのだ。ああ!、、、これで、合点がいった。」
項王は、自分で自分の発想に、うなずいた。
虞美人は、相変わらずの子供っぽい彼に、笑いが込み上げてならなかった。
項王は、言った。
「この中国だけを治めれば、それで天下は平定だなどと、私は考えたくない。中国の外には、もっと輝かしい文明があることを、私はすでに知っている。それも、当然だ。地の果ての向こうにも、人が生きて暮らしているからだ。人がいる世界があれば、そこには必ず、偉大なものもあるはずだ。多くの偉大なものを知れば知るほど、自分の生まれた場所だけが世界でないことを、知るようになる。だが、それを知らなければ、自分の故郷を本当に愛することもまた、できはしない―」
彼はもう、楚とか漢とか、中国の世界の中で国の大小を誇る考えを、卑小なものと棄て去っていた。この中国の世界の中だけでものを考える限り、もう何も出て来ない。すでに、始皇帝が全ての国境を取り払ってしまった、後なのだ。戦国の七国を併せた中国の天下は、確かに広大である。だが、項王から見れば、この天下の可能性は、もはや尽きていた。住む人が皆同じようなことを考えるような天下は、いくら広大で人が多くても、何も生み出すことができない。項王は、一個の自由な魂でありたかった。それゆえにもっと広い世界を求め、もっと偉大なものを愛し、そして普通の人よりもっと、故郷を愛したかった。故郷を愛することは、自分を愛することだからであった。
項王の目は、遠くを見つめたままであった。
虞美人は、彼に言葉を添えた。
「この、乾いた地―」
彼女は、項王の腕に寄り添って、言った。
「あなたの、ためにある。私たちの、ためにある。」
項王は、彼女を向いて、うなずいた。
彼女は、項王に言った。
「項羽、、、舞台を、作りなさい。私が、あなたの歌のために、舞おう。」
項王は、虞美人の提案を、喜んだ。
彼は、聞いた。
「皆を集めて、あなたの舞いを見せてもよいか?」
彼女は、莞爾(にこり)とうなずいた。
「いいさ。この地に、風を吹かせよう―!」
久しぶりに、虞美人は舞うことに決めた。
二人は、腕を組み合って、笑い合った。
翌日。
戦場の動きははたと止んで、項軍の真ん中に、小さな舞台が盛り上げられた。
項軍の兵卒たちには、久しぶりに酒食が振舞われた。
すでに補給の乏しい中であったが、項王はこの日ばかりは全軍に休息の一膳を、行き届かせた。
兵卒たちから音曲のできる者が集められて、華々しく合奏が鳴り響いた。
項軍の兵卒たちは、皆長引く連戦で、汗と土と血にまみれていた。
彼らは、死の恐怖も厭わずに、項王に付き従っていた。
だが、彼らは確かに、疲れ始めていた。
勝っても勝っても次の戦をせざるをえない状況に、誰もが閉塞感を持たずには、おられなかった。
汚れと疲れを見せる衆人の前に、虞美人が現れた。
皆の口から、声が漏れ出した。
― これが、、、
― これが、、、
学もなければ城市の華やかな生活も知らない、朴訥な兵卒たちであった。その美に思わず声を出したものの、表現する言葉を持ち合わせていなかった。兵卒たちの重なった声は、まるで無数の狗が吠え合ったように聞こえた。
虞美人は、彼女の最も華やかな錦繍を着込んで、音曲に合わせて滑るように舞い始めた。

大風起コリテ、雲、飛ビ揚ガル

威ハ海内に加ワリテ、故郷ニ帰ル

安クニカ、猛士ヲ得テ、四方ヲ守ラシメンヤ?

彼女は、歌舞の調子に合わせて、少しだけ歌の内容を変えた。
項王の大いなる覇気と力が、すでに天下を覆っていることを彼女は信じた。彼女と彼は、もはや海内の誰にも、劣りようがない。虞美人は、誇らしげに風吹く空の下で、舞った。
二度、三度と重ねて歌い、声は天に響き、くるくると舞う手足は、風となった。
兵卒たちは、次第に興奮して、うめくように手足を打ち鳴らした。
舞台の周りは、やがて騒然となった。
彼女の舞いは、兵卒たちに再び覇気を呼び戻したようであった。
項王は、兵卒たちの一番前に座りながら、手を打って喜んだ。
「ああ、、、そうだ!そうだ!」
彼は、兵卒たちと共に、自らも舞った。
舞って、酔って、大いに喜んだ。
彼は、虞美人に駆け寄って、彼女を肩に掲げた。
兵卒から、万歳の叫びが響き渡った。
項王は、輝くように微笑む虞美人と、目を合わせた。
彼は、その目をもって、彼女に語り掛けた。
(私には、あなたがいる、、、漢王には、いない!)

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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