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二十二 罠に入る(1)

(カテゴリ:垓下の章

韓信が動いたという報せは、たちまちのうちに、諸国に伝わった。

梁で、その報せを聞いた彭越が、直ちに宣言した。
「漢は俺を梁王となし、大領土を確約した。これで動かなければ、後で漢王からかえって懲罰を受けるだろう、、、我が軍も、急ぎ参戦するぞ!」
韓信が動いたからには、彭越もまた、追随するより他はなかった。
天下は、統一されるであろう。彭越は、統一に乗り遅れるわけにいかない。
彭越は、手持ちの兵全てを投入して、漢王に合流することとなった。
彼は、配下の用意した輿(こし)に、飛び乗った。
乗りながら、誰に聞かせるともなく、一言吐き捨てた。
「― 他媽的(ちくしょう)!」
彭越は、苦い顔をした。
彼は、梁王の地位を与えられながら、いまだ漢王を信じられなかった。
だが、もう進むより、他はない。
自分が動かなくても、韓信は、項王を平らげてしまうだろう。
彭越は、独語した。
「漢王めは、統一した後に、きっと牙を剥く。とうとう虎の口に、入るのか、、、」
彼は、韓信よりもずっと、漢王のことをよく観察していた。
彭越は、腹立ちまぎれに、自分を輿に乗せ上げた近侍の兵の顔面に、したたか拳を食らわせた。
拳を受けた兵は、たまらず鼻血を吹き上げて、遠く後ろに吹き飛んだ。
周囲の者たちは、また野獣の暴力が始まったので、怖れて平伏するばかりであった。
彭越は、彼らのことなど気にも掛けず、輿を進めさせて、漢王のもとに急いで行った。

この頃、漢王は項王に攻め寄せられて苦しんでいたところが、にわかに敵の圧力が弱まったことを、感じていた。
北から、ついに斉王韓信が兵を挙げたという報せを、漢軍は受け取った。
斉王に続いて、彭越も漢王に呼応した。
南では、淮南王黥布と劉賈が、楚領に深々と侵入した。劉賈は寿春を包囲し、黥布は九江の諸県を陥としていった。
この情勢を見て、ついに楚の大司馬の周殷が、漢に寝返った。かねてから黥布を通じて調略の工作を行なっていた、楚の高官であった。さらに灌嬰率いる斉の第二軍は、淮水の両岸を破竹の勢いで、征服していった。こうして楚の南方は、ほとんど項王の手から、離れてしまった。
項王すら、手勢と共に後退を余儀なくされた。彼の前線から、糧食が尽きてしまったからであった。もはや、項王のもとに、後背からの支援は絶えた。項王は、彼の都の彭城方面に向けて、退かざるをえなかった。
漢軍は、ようやく息を吹き返した。
漢王は、勇躍塁壁から抜け出して、項王の追撃に移ろうとした。
だが陳平が、調子に乗る漢王を、諌めた。
「― お一人で行けば、また大敗しますよ。」
漢王は、舌打ちした。
「待てというのか、あいつを、、、」
陳平は、言った。
「冷静に見て、彼に任せるしか、項王を殺す術はありません。」
彼は、言い切った。
漢王は、平然と自分を諌める陳平を見て、彼に聞いた。
「おい、小才子、、、お前は、当然俺の味方だろうな。」
陳平は、答えた。
「何を、いまさら。」
漢王は、にやりと笑った。
「分かっているさ。お前の主君となるべきは、韓信ではない。この俺だけが、お前の主君として、ふさわしい。」
陳平は、言った。
「全ては、天下平定のため。大王だけが、天下を平定できるのです。ゆえに、臣は大王のために、働きます。」
そう言って、彼は主君に拝礼した。
拝礼された漢王は、天下平定という言葉を聞いて、口元で軽く、へ!と一笑した。
ともかく、陳平に言われて、漢王は自重することにした。
このとき韓信は、斉の本軍を率いて、一路南下していた。
諸侯と共に固陵に集結して、項王と最後の決戦に臨む。それが、韓信の思惑であった。
漢王は、決意した。
斉軍の陣営に向けて、自ら馬車を、走らせて行った。
斉軍がついに固陵の漢軍と合流しようとした、前の日―
斉王の陣営に、漢王の姿が現れた。
韓信と漢王は、久しぶりに互いの顔を、見合わせることとなった。
「――」
「――」
二人は、互いに拝礼した後、しばし無言であった。
臣下の礼は、無しであった。
韓信は、斉王となって、漢王の前に再び立っていた。
もう、両者は対等である。
「――」
「――」
思えば、いまだ無名の韓信が、漢中に押し込められた漢王のもとに命を賭して売り込んだところから、二人の関係は始まった。
漢王は、丞相蕭何の薦めを容れて、韓信をいきなり大将軍に任命した。韓信は、以来漢軍の総帥として、項王との戦を指揮し続けた。一度は、項王の奇蹟の武勇の前に、彭城で惨敗を喫した。韓信はその後、漢王にはひたすら持久することを薦めて、自らは別に軍を率いて、漢のために諸侯を併合して行った。国士無双の伝説は、諸侯併合の戦の時より、始まることとなった。
しかし、名声を得た韓信と、漢王との関係は、怪しくなった。
功過ぎた臣は、殆(あやう)し。
漢王は、趙を征服した韓信から、詐術を用いて国をまるごと奪い取った。
漢を、強くするために。そして、功過ぎた韓信の力を、弱めるために。漢王は、覇者として狡猾非情の道を取った。
だが韓信は、漢王の策にも関わらず、斉でまたも兵法の天才を示して、またも国士無双の名を高めた。ついに、この地で彼は王に昇り、漢王と同じ位となりおおせた。
韓信と漢王は、言葉もなく、立ったまま動きもせずに、相対し続けた。
わずかな時間であったが、二人にとっては無限の長さのように、思われた。
夏候嬰と陳平が、本日漢王に従って、斉の陣営にあった。夏候嬰は主君のために馬車を操り、陳平は主君のために智恵を貸す、役目であった。
漢王の後ろに控えていた彼ら二人が、あっと声を挙げた。
漢王が、やにわに韓信の前で、膝を屈した。
彼は、韓信の前にうなだれて、深く頭を下げた。
「斉王― あなたしか、項王を倒すことが、できません。どうか、天下平定のために、全ての指揮をお取りくださいませ。どうか、お願いします、、、!」
韓信は、漢王の言葉に、驚愕した。
漢王は、韓信の困惑も気にせず、彼にすがり着いて願った。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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