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二十一 愚かなり、国士(2)

(カテゴリ:垓下の章

斉王韓信は、漢への加勢を、決断した。

韓信は、灌嬰を別将に任命して、進む斉軍の一方の指揮者とした。
韓信は、灌嬰に命じた。
「よいか。これよりお前は、一挙に楚領を南下して、淮水の両岸を征服せよ。お前が兵を率いて進めば、楚の各城市は必ず先を争って、降伏していくであろう。項王と楚軍から、後背を奪ってしまうのだ。」
灌嬰は、韓信の指示に、きっぱりとうなずいた。
さらに、韓信は命じた。
「お前が淮水の両岸を制圧したとき、項王はたまらず兵を割いて、反撃に移るだろう。楚軍が南下したならば、お前はすかさず会戦して、これを蹴散らせ。お前はもう、歴戦の将軍だ。これまでの戦の通りに戦えば、楚軍に必ず勝つことができる。お前が楚軍を破ったとき、すでに項王は追い詰められている。そして私は、最後の手を下すだろう―」
韓信は、自信をもって、別将の灌嬰に作戦を申し述べた。
韓信が、満を持して練り挙げた作戦であった。灌嬰に、異論などあるはずもない。
彼は、斉王に、神妙に拝礼した。
「必ずや、ご期待通りの結果を出して、再び大王に相見えたいと望みます。」
韓信は、莞爾(にこり)とした。
斉都の宮城には、総軍が終結していた。
韓信は、一言だけで、号令した。
「― 進!」
大王の、決断である。
もう、国は動かざるをえない。
斉軍は、一路南に向けて、進んでいった。
韓信は、長剣を引提げて、馬上にあった。
相変わらず、どこか威厳の足りない、大王の勇姿であった。
宮城に残って見送る官吏たちの先頭には、曹参がいた。
彼は、戦に赴く大王に拝礼する姿勢を、軍の影が城門から見えなくなるまで、ずっと崩さなかった。
崩さぬ姿勢のままに、心で思った。
(― やがてこの都に戻ってくる斉王は、韓氏から劉氏に代わっているであろう。)
彼は、密かに漢から内示を受けていた。
漢王は、戦後に庶子で長男の肥を、斉王に据え付けるだろう。まだ年少であるから、曹参が相国として、漢王の子を輔佐することとなる。この富強な国を、漢の領地としてしまうために。
曹参は、拝礼する袖の下に隠れて、皮肉な表情をした。
(漢は、全てただ取りだ。天下の平定も、この斉の国も、、、)

韓信が南に向けて軍を進めていた、同じ頃。
斉の、ある小さな城市。
城下で、奇怪な動きをしながら唸(うな)る、一人の巫覡(ふげき。シャーマン)がいた。
「あへや――っ!」
巫覡は、奇声と共に、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
その周囲を、わらわらと見物人が集まっていた。
見物人たちは、完全な狂人と思って、その不思議な踊りを爆笑しながら、見ていた。
「うほっ、、、うほうっ!」
巫覡は、手に持つ粗末な嚢(ふくろ)の中から、大きくて真っ赤な菌(きのこ)を、取り出した。
彼は、その毒毒しい色の菌を掴んで、むしゃむしゃと食らった。
巫覡が使う、幻覚をもたらす菌であった。
巫覡は、菌の毒にやられたか、さらに異様な動きで、踊ったり唸ったりした。
見物する城市の者どもは、巫覡のことをはやし立てて、大いに嘲笑った。この斉では、巫覡の姿は珍しくない。民の要望に応じて祈ったり祝ったりして口銭を稼ぐ、最も賤しい存在として、軽んじられていた。
巫覡は、錯乱する脳の中で、一筋の思考を辛うじて続けた。
(― 甘い、男めが!)
彼は、思った。
(韓信。もはやお前が生き延びられる道は、この俺のように社会の最底辺に落ちぶれて、狂人と化すぐらいしかないぞ。それが、権力というものだ。だがお前にはたぶん、できないだろうな、、、)
巫覡に身をやつしたのは、韓信の前から姿を消した、蒯通その人であった。
彼は、もう破滅してしまった。
巫覡と化して、嘲笑われながら生きるのが、残された人生であった。
観衆は、狂った巫覡を、大喜びしながら見物していた。
(こんな奴らのために、韓信は栄光を捨てるというのか―)
巫覡と化した蒯通は、吐き捨てたいような気分であった。
(愚かに、過ぎる。統一したところで、喜ぶのはこいつらだけだ。お上に従うのを苦とも思わず、日々を何も考えずに生きる、愚民どもだけだ。)
何もかも、無念であった。
だが、もう彼の希望は、尽きた。
蒯通は、腹立ちまぎれに、愚民にもっと見せ付けてやろうと、考えた。
彼は、次の狂気を始めた。
巫覡の踊る横には、めらめらと炭をくべた火が、燃え盛っていた。
彼は、その中に銅の串を、放り込んだ。
串は、たちまちに火に焼けて、真っ赤に変色した。
十分に焼けたとき、彼はそれを手に掴み取った。
掌が焼け焦げたが、気にも留めなかった。
それどころか、蒯通は、その串を、自分の舌に向けた。
観衆の笑いは、悲鳴に変わった。
蒯通は、恐れる声を、むしろ心地良く聞いた。
もう、彼の縦横家としての生涯は、韓信によって終わった。
韓信は、彼のような全ての、権力にへつらうことを望まぬ自由な者たちの未来を、破滅させてしまった。
彼は、尽きぬ恨みとともに、もう使われることのない自分の舌に向けて、焼けた串先を向けた。
(俺は生き延びて、お前がいずれ屈辱にまみれる様を、見届けてやる―!)
観衆が、一斉に恐怖の大声を挙げた。
蒯通は、一息に舌を、突き刺した。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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