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二十一 愚かなり、国士(1)

(カテゴリ:垓下の章

韓信は、聞こうとしない。

「なぜだ!」
蒯通は、血の涙を流しながら、言った。
「なぜ、あなたは漢王に、従うのか!まさか、奴に大将軍に任じられた恩義があるからなどと、考えているのではあるまいな!奴は、あなたに大才があるからこそ、あなたを使って己が天下を取りたいからこそ、あなたを大将軍に任じたのだ。だが今やあなたは、あなたの功績を盗んだ奴の詐術も振り切って、斉王と漢王とは、すでに対等なのだ。漢王は、あなたの巨大な功績を、決して許しはしない。項王亡んだ後に、必ずあなたを背中から蹴飛ばそうとするに、決まっている。奴の思惑に、どうしてあなたは備えないのか。どうしてあなたは、己を捨てに向かうのであるか、、、答えろ、答えるのだ、韓信っ!」
問い掛ける蒯通は、もはや主君への礼儀も構わず、韓信の両肩を揺さぶって叫んだ。
韓信は、必死に聞く蒯通に対して、言った。
「― 恩義などでは、ない。」
蒯通は、聞いた。
「ならば、どうして!」
韓信は、静かな声で、答えた。
「私が郷里の淮陰を出てから、十余年。この間に、いったいどれだけの人間が、死んだであろう。私は、楚で、秦で、趙で、この斉で、人家の煙が絶えて尽きた城市や邑(むら)を、数え切れないほどに見て来た。この十年にこの地で起ったことは、全てが戦乱であった。戦乱のために、各地の郷里は人を失い、私の郷里である淮陰もまた、亡びかかっている。私は、もと淮陰で生きる道を見失って、毎日をのらくらと過ごすことしかできなかった、愚か者であった。それが、たまたま風雲の時代に巡り会ったために、兵法を学んで、世に出る機会を得た。そうして、これまであまりに多くの戦を経て、今まで勝ち残ってしまった。何という、人生であろう。私は、戦乱のために成功し、戦乱が私を、有名にしてしまった―」
彼は、これまでの自分の軌跡を、振り返っていた。
自分は、もし戦乱がなければ、ただの笑い者だったであろう。
彼は、戦乱によって人が死に絶えることと引き換えに、栄光を得た。
無名より突如現れた、漢の大将軍。
幾多の芸術的な勝利を挙げた、古今無双の兵法家。
天下無敵の、国士無双。
韓信は、彼にまつわるそのような賞賛に、しかし無欲であった。
彼は、言った。
「私は、この戦乱を終わらせるために、戦おうと決意して、一度戻った淮陰から、再び立ち上がった。以来、己のささやかな力を信じて、戦い続けた。そうして私は君主となったが、いま戦乱を終わらせる機会が自分の手の内にあるのに、留まることなど、できはしない。蒯通よ。お前たちは、私に君主であり続けて、戦い続けろと勧める。だが私には、これ以上戦乱を続けるなど、とてもできない。全ての人が死に絶えた後の栄光などに、私は手を伸ばせないのだ。私は、自ら進んで、天下から戦乱を断つ。お前たちの期待に添えない私は、愚か者だ。だが、この韓信という淮陰の愚か者は、この道を進まなければ、ならないのだ。」
彼は、言い終わって、目を閉じた。
考えた末の、ことであった。
韓信にとって、自分にまつわる栄光は、あまりに過ぎたものであった。
韓信は、自分の栄光から降りることを、決意した。
だが蒯通は、引き下がれなかった。
彼は、これが最後とすがるように、韓信を説き伏せた。
「何が、天下ですか。この広大な世界が、何で一人の支配者と、一つの朝廷から天下る官吏どもの下に、抑え込まれなければならないのですか!天下の統一を望むあなたの心には、どうしようもない奴隷の根性が巣食っている。戦い続けなければ、ならないのです。犠牲を惜しんでは、いけないのです。戦って命を捨てても、心を捨てては、いけないのです。どうか斉独立の夢を、捨てないでください。我らの希望を、壊さないでください。大王、大王、、、!」
だが、韓信はもう、聞かなかった。
「もう、言うことはない。明日には、私は項王を討ちに行く、、、済まぬな、蒯通。」
彼は、歩き去った。
彼の後ろから、蒯通の罵声が、回廊じゅうに響き渡った。
「昏君!昏君!、、、ふーんーちーゆーん!」
韓信は、もう振り向かなかった。
留める者たちを残して、彼は宮城を後にした。
彼が戻った自邸には、以前と変わらず、黒燕が待っていた。
黒燕は、月満ちて、母親となっていた。
産まれた赤子は、肌白くて美しい、女の子であった。
彼女は、きゃらきゃらと笑う自分の子を手に抱えて、眺めながら、言った。
「こんな子、産まれないほうが、よかった―」
母となった彼女は、楽しまなかった。
韓信は、彼女たちに、言った。
「明日、私は、項王を討ちに出発する。これが、最後の戦となるだろう。」
黒燕は、彼に振り向かず、横目だけを向けて、言った。
「私が、あなたの決意に賛成するなんて、思っているの?」
韓信は、答えなかった。
黒燕は、首を振って、泣き始めた。
「あなたは、ひどい奴だ、、、」
韓信は、言った。
「私は、こうしなければならない。心を、偽れない。お前に分かって欲しいとは、思わない。」
黒燕は、涙と怒りを混ぜ合わせて、韓信に言った。
「― この子は、、、あんたの子じゃないよ!」
彼女は、これまで隠していた秘密を、とうとう言ってしまった。
もう、彼女は、何もかもおしまいにしてしまいたかった。彼の韓信は、あの漢王に、従おうとしている。彼女にとって忌まわしい、あの男に。
しかし、韓信は、驚きもしなかった。
「ああ― 知っているよ。」
彼は、黒燕に言った。
黒燕は、韓信の言葉に、震えが止まらなかった。
「なぜ、、、!」
驚いて聞く黒燕に対して、韓信は言った。
「君は私に近づいたときに、もう身ごもっていた。私は君のことを大事に思っているから、君のそのくらいの演技は、分かるさ。だが、よいのだ。もし私が、この戦の後にも生きていられるならば、この子は私たちの子として、育てよう。だがもし私に危害が及ぶとすれば、お前はその子と共に、逃げるがよい。私に君たちが巻き込まれては、いけない。」
彼は、とっくに気が付いていた。
しかし、韓信は、黒燕に言わなかった。このまま気付かぬままに二人の子として育てたかったが、たとえ真実が明らかになっても、韓信の心は、変わらなかった。
韓信は、黒燕の腕から、娘を抱いて取った。
昨日までと変わらず、父親のように優しく、小さな命をあやした。
肌白い娘は、明るく笑いこぼれた。
黒燕は、韓信たちの前で、崩折れた。
「後悔するよ。絶対に、後悔するよ、、、」
彼女は、声を立てて、泣いた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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