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二十 罠を巡らす(2)

(カテゴリ:垓下の章

ついに斉王韓信に向けて、漢王からの急使が走った。

項王討伐に参加すべしとの、要請であった。
韓信は、斉都の宮城で、漢からの使者の言葉を受け取った。
「― 異議の、あるはずもない。」
韓信は、使者に答えた。
使者は、喜んで韓信に、戦後の恩賞の内容を告げた。
「漢は、項王を亡ぼした後に、項王の旧領のうち楚地の全てを、大王に献上する次第でございます―」
韓信は、言った。
「領地などは、天下平定の後に考えればよい。今は、この地から戦乱を断つべきことを、考える時だ。灌嬰を別将として進ませ、私自身もいずれ漢王と、相見(まみ)えることとなろう― 戻って、漢王にそう告げるがよい。」
使者は、斉王の言葉に、ただただ感謝して平伏した。
漢使が帰った後、斉の高官たちが、必死になって韓信を諌めた。
「― 大王!、、、漢王に加勢しては、いけません!」
高官の一人が、顔面蒼白となって、韓信に言った。
また、別の高官が、言った。
「漢王は、これまで何度、人を裏切ってきたことか!、、、きっと、大王のために、罠を張っているに違いありません。大王、あなたもまた、かつて趙で漢王の詐術の犠牲となった身では、ありませんか!」
韓信は、言った。
「趙のことは、致し方なかった。漢を、立ち直らせるためであった。いま漢は、私が動かなければ、またも項王に敗れるだろう。それでは、天下平定が遠のいてしまう。私は、自分の力でできることをやらず、己のために世の人を犠牲にすることを、恥じる。」
韓信は、周囲の諌言を、聞かなかった。
もう、彼の心は、決していた。
韓信は、立ち上がって、斉の百官に出陣を発令した。
「すでに、私の意は決した。斉国は、漢に加勢して、項王を討つ。天下平定のために、覇王に引導を渡す!」
斉王の命は、下された。
もはや、配下に異論は許されない。
韓信が謁見の間を立ち去った後に、曹参が、うなだれる斉の高官たちを、じろりと睨み付けた。
曹参は、漢の右丞相の印綬を保ちながら、今や同時に斉の相国の位に、就いていた。
(この私は、斉に残るべし―)
曹参は、思惑を立てた。
斉人の動きを抑え、項王を攻める韓信の後背を、確かなものと為さねばならない。
(そして、、、戦後に、備える。)
曹参は、密かに胸中に、思惑を持った。
彼は韓信に忠実に仕えていたが、漢臣であることを一時たりとも、忘れたことがなかった。
韓信は、宮城を後にしようと、歩を進めていた。
明日には、出陣するだろう。
彼は灌嬰を将軍に任じて、すでにこの時を予期して、大軍を備えさせていた。
もはや、かつて彭城で受けた失敗は、繰り返さない。
韓信の頭脳には、作戦の全体図から、灌嬰に命じるべき詳細な指示の数々までが、湧き上がるように浮かんでいた。彼は、やはり軍略の天才であった。
思いにふけりながら歩き続ける韓信は、前の方向に気を取られなかった。
もう少しで、回廊の真ん中に立つ人物に、衝突しそうになった。
韓信がようやく気付いて、慌てて人を避(よ)けた。
避けた先に見えた人物に対して、韓信は声を掛けた。
「蒯通、、、!お前は、どこに行っていたのか?」
彼の前に立っていたのは、縦横家の蒯通であった。
彼は、先ほどの漢使を謁見した席に、居合わせなかった。
それどころか、ここしばらく、彼は韓信の前にふっつりと現れなくなっていた。
韓信が久しぶりに見た蒯通の表情は、恐ろしくやつれて、痩せ切っていた。
彼の目だけが、ぎらぎらと光って、厳しかった。
蒯通は、言った。
「漢王が陳から東、楚地の全てを与えるという― それが、罠であることに、あなたはどうして気付かれないのか!」
彼は、全身を震わせながら、韓信を非難した。
韓信は無言で、蒯通を見据えた。
蒯通は、声を張り上げた。
「今、あなたは夢中で項王を倒す策を、練り上げている。なんと結構な、軍略家であろうか。自分が殺される結末が待っているにも関わらず、天下平定のために、己の兵法の才を与えて惜しまない。これほど愚かな人間を、私は見たことがない!、、、あなたは、前代未聞の、愚か者だ!」
韓信は、答えなかった。
蒯通は、声を震わせて、言った。
「これが、最後です。受け入れられなければ、もう私は二度と、あなたの前に現れません。繰り返します。漢王は、あなたを亡ぼすつもりです。今あなたが動き、項王を亡ぼせば、次はあなたの番です。あなたの命と、あなたの周りにいる者たちの望みと、斉国の独立と、そして天下統一という暗黒の時代を望まない全ての自由な人間たちの、希望と― それら一切が、あなたがいま動けば、消えてなくなります。一切を守るために、あなたは動いてはならないのです。頼みます。動かないで、ください、、、動くな、国士無双!」
蒯通は、泣き始めた。
彼の涙は、今度こそ本心からのものであった。彼の縦横家の生涯で、いま初めて彼は、本心から涙を流した。
蒯通は、韓信の両の腕に、すがり着いた。
韓信は、立ち尽くした。
しばし、無言のままであった。
だが―
彼は、蒯通の前で、首を真横に振った。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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