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二十 罠を巡らす(1)

(カテゴリ:垓下の章

項王がこんなにも早く、漢軍の前に現れた理由―

それは、韓信と彭越が、動かなかったからであった。
彭越は、漢王のことを、全く信頼していなかった。
項王と勝手に和睦して、自分のことを、まるで忘れ去ったかのような振る舞いをした。
その上で、やはり項王を攻めるから、加勢しろと言って来た。
彭越は、このままでは戦後に漢王に潰されると、正しく読んだ。
彼は、北の韓信の動向を、注意深く見守っていた。
韓信は、動かない。
それで、彭越は、動くのを止めた。
「俺と韓信がいなければ勝てないことを、漢王は思い知るがよいわ。漢王よ。俺たちに頭を下げて、領地をどっさり安堵しろ。そして、俺たちとお前が、戦後に対等だという保証をよこせ!」
漢王同様に狡猾を武器とする彭越は、梁の地から、そう叫んだ。
こうして楚の北に戦線が張られることはなく、項王は直ちに侵入した漢軍を粉砕するために、駆け付けることができた。
漢王の陣営にやって来た張良は、漢王を鋭い声で、非難した。
「― どうして大王は、斉王を呼ばれないのか!」
張良の表情は、怒りに満ちていた。
張良たちの立てた計画では、斉王韓信を、最後の決戦に誘うはずであった。
だが漢王は、当初の計画にもかかわらず、韓信を項王との戦いに、呼んでいなかった。
そのために、韓信は当然、現れなかった。
韓信を抜きにして戦った結果、漢軍だけでは項王を倒せないことを、白日の下にさらけ出してしまった。
張良に責められて、漢王は嫌な顔をした。
「、、、あれを使うのが、嫌だったのだ。俺の、判断だ。」
張良は、漢王の判断の甘さに、天を仰いだ。
「広武山で長々と対峙して、楚を追い詰めた成果が、これで台無しです。一挙に天下を平定する、はずだったのに。民の苦痛が、ようやく除かれるはずであったのに、、、!」
嘆く張良に、漢王は言った。
「子房― 甘いのは、お前だ。」
張良は、言われて漢王に、向き直った。
漢王は、軍師に謝りもせずに、言った。
「あれに、これ以上栄光を与えるのが、どれだけ危険なことか。あいつは、きっと項王を一人で倒してしまう。俺の出る幕は、ない。俺の能無しの配下どもは、俺ではなくてあの阿哥(にいちゃん)を、王として崇めることであろう。あいつもまた、俺の敵なのだ。子房よ。お前は、甘い。」
漢王は、本音を出した。
彼は、韓信に自分の地位が取られてしまう危険を、感じ取った。
漢王は、韓信が決して自分の配下とならないだろうと、思った。自分の配下に留まる奴などは、しょせん気概のない能無しでしか、ありえない。だが韓信は、気概のない能無しでは、断じてない。漢王は、韓信に追い抜かれることが、恐ろしかった。
張良は、言った。
「呼ばなければ、天下は平らぎません。あなたは、己を捨てられないのか!」
だが漢王は、答えた。
「捨てられん。お前は、俺のことを分かっているだろう。」
張良は、このときこれほどまでに、漢王を憎らしいと思ったことは、なかった。
彼は、漢王に対して真剣に怒りの表情を、向けた。
しかし漢王は、張良に怒りを向けられても、悪びれる気配を見せなかった。
漢王は、張良に言った。
「― 軍師。戦後に韓信を亡ぼす策を、示せ。それがなければ、奴を呼べない。」
張良は、漢王の言葉に、目の前が暗くなった。
言わなければ、この戦は、終わらない。天下は、平らがない。
張良は、うなだれて、目をつぶった。
彼は、言った。
「、、、韓信と、彭越を動かすためには、領地の安堵が必要です。彭越には睢陽(すいよう)より北、梁の地全てを与えて梁王となし、韓信には陳より東、すなわち楚の地全てを、与えると告げる。これが、まず、第一の段階―」
張良は、下を向いたままで、続けた。
「そして韓信が駆け付けたならば、項王との戦を終えた後に、その場で直ちに彼を斉王から楚王に転封するのです。韓信は、絶対に抵抗しません。彼の力を削ぐために、地盤の斉から引き離すのです。これが、第二の段階―」
張良は、言い続けることに、忍びなかった。
しかし、策を最後まで言うより他は、なかった。
「楚は広大とはいえ、すでに全く疲弊していて、韓信の力となりません。さらに、楚の土地はやがて漢軍により隅々まで占領されるために、そのまま占領した軍を、当地に残して置くのです。こうなれば、楚王となった韓信は、漢に監視されているも同然です。彼からいずれ領地を召し上げることは、極めて容易なこととなりましょう。詳細な策は、陳平が立てることになります。韓信を転落させてしまいさえすれば、もはや漢の天下は、安泰です―」
張良は、策を述べ終わった。
彼は、逃げ出したい気分となった。
漢王は、彼の策を聞いて、言った。
「― よし。」
漢王は、軍師の策を、容れた。
張良は、言った。
「大王。何とぞ、、、彼の命だけは、免じてやって下さい。彼は、天下のために、多大な功績を立てました。漢のために、韓信が王を逐われるのは、致し方のないことです。ですが、ですが、、、彼の、命だけは―」
漢王は、彼の嘆願に対して、言った。
「奴が歯向かわなければ、命までは取らないさ、、、歯向かわなければ、だがな。」
そう言って、漢王は、は!と一笑した。
勝利への道は、見えた。
漢王は、高らかに号令した。
「よおし!国士無双に、ご登場願おうか!、、、陳平を、呼べい!」
漢王はそう命じて、は!は!は!と、わざとらしく笑った。
(韓子、、、許せ!)
張良は、心の中で、彼にひたすら謝った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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