«« ”二十三 垓下へ(1)” | メインページ | ”二十四 項王敗る(1) ”»»


二十三 垓下へ(2)

(カテゴリ:垓下の章

漢の五年、十二月。

項王を討つために、各方面から諸侯の軍が、続々と詰め掛けてきた。
梁からは、彭越。
九江からは、淮南王黥布と劉賈の軍。
そして固陵からは、斉王と漢王の軍が共に、項王を追って進んだ。
斉王たちのもとには、さきに彭城を陥とした灌嬰の第二軍もまた、合流した。
諸侯の軍が向かう先は、垓下城。
今、項王は楚軍と共に、ここに留まっている。
諸侯の軍を指揮することとなった斉王韓信は、この天下に長らく荒れ吹いた凄絶な戦を、今度こそ終わらせる決意であった。
「斉王は、これから進んで野戦すると言う、、、本当に、勝てるのか?」
諸侯が集結した軍議の席で、漢王は、韓信に聞いた。
諸侯の眼前に、韓信は黙然として座っていた。
噂に聞いた、国士無双であった。
諸侯には、彼の姿を初めて見た者も、多かった。
韓信は、漢王の問いに答えた。
「― 勝てます。」
彼は、諸侯に兵法の講釈などせず、一言を答えただけであった。
諸侯は、存外に威厳のない男であると、当初この国士無双を見て、期待外れの感を持っていた。
だが、今の彼の答えには、人物としての、真の重みがあった。
稀代の兵法家は、この戦が順当に完勝で終わるべきことを、すでに読み取っていた。
今、自軍に残されている懸念は、項王への恐怖感、ただそれだけであった。
韓信は、この戦を、天に捧げる心境であった。
ついに、天下から戦を終わらせる。
その使命を遂げようとして、彼の中からは、一切の雑念が消え去った。
諸侯は、ようやく国士無双と彼が呼ばれる意味を、理解した。
軍議は、一致した。
諸侯軍は、垓下に向けて、一路進んで行った。
同じ、頃。
迎え撃つ垓下城の項王もまた、決戦の構えを、急いでいた。
これまで兵卒の脱走が相次いで数を減らしていたはずが、今となって垓下に入った兵の数は、かえって増えていた。
いつしか、項王の下には、楚の各地から敗北した兵卒たちが、ぞろぞろと集まって来た。
彼らは、命じられもしないのに、項王のために駆け付けて、垓下に急いだ。
項王の威光は、いまだ完全には消えていない。
兵卒たちは、項王のために命果てるまで、戦うつもりであった。
項王は、自分を見捨てずやって来た兵卒たちのことを、大いに喜んだ。
彼は、残された全軍をこぞって、諸侯軍に当ることに決めた。
「この私は、江東で兵を挙げて以来、今に至るまで八年。七十余戦を戦い、いまだかつて、敗北を知らない。秦を倒し、諸侯を挫き、漢兵をこの手で葬った。今、諸侯の軍が、私を倒そうと兵馬をこぞって迫る。しかし、私はこれを迎え撃ち、今度もまた、きっと勝つであろう― そうだ。勝たなければ、ならない。私に付き従ってくれる、諸君のために!」
項王の言葉に、兵卒たちは、沸き立った。
彼のいとこの項荘を始め、近侍する項王の騎兵たちもまた、覇王の言葉に、揃ってうなずいた。
奇蹟の覇王は、より強大な敵を、これまで幾度となく打ち破って来たではないか。
今度もまた、どうして例外となりうるであろう。
垓下の城は、たった一点残された、覇王の無敵を信じる、覇王のための国であった。
夜と、なった。
兵卒たちは、明日の決戦に備えて、各所の配置に散って行った。
項王を慕って来た兵卒たちには悪いが、もう食わせるものすらない。戦の前日には腹に食を入れておくために城から炊煙が立ち昇るのが通常であったが、今夜の垓下城は、火をくべる音すらなく、静かなままであった。兵卒たちは、残されたわずかな携帯食を、分け合って食った。戦うにはとても不足であったが、彼らは項王のために、命の限り戦うつもりであった。
城中の一室にだけ、燭台の光があった。
項王は、虞美人と共にあった。
項王は、虞美人に言った。
「これが、最後の戦いかもしれない。」
虞美人は、言った。
「戦のことは、あなたが一番よく分かっている。あなたですら、勝てないかもしれない。そう、思うのかい?」
項王は、彼女の問いに答えず、思いを馳せた。
「八年間―」
彼は、言った。
「私は八年間、戦い続けた。この間、戦ってばかりの、日々であった。こんなはずでは、なかったのに。」
覇王として恐れられることが、彼の求めた夢ではなかった。
なのに、戦いの日々を通り過ぎて、彼の得たものは戦の功績に加えて、恐怖の覇王という評価ばかりであった。
虞美人は、言った。
「だけど、あなたは戦っているとき、いちばん輝いている。間違いないよ。結局戦うあなたが、本当のあなたなのさ。あなたにとっては、目論見違いだったかも、知れないけれど。」
項王は、無心でつぶやいた。
「大きな夢を、語りたかったなあ、、、」
項王は、虞美人の胸に、深く沈んだ。
虞美人は、優しく覇王の息づく巨体を、包み込んだ。
虞美人は、ささやいた。
「抱くかい?、、、久しぶりに。」
ここしばらく、項王は彼女の体を求めることすら、忘れていた。彼女に飽いたわけでは、なかった。二人の間には、体の関係以上にもっと素晴らしいものがある。項王は、それで十分だと、思うようになっていた。
だが、虞美人にとっては、多少不満であった。それで、愛する男に、いたずらっぽく聞いた。
だが、項王は、彼女の胸の中で、首を横に振った。
「抱けば、今日満足して、明日を戦えなくなる。私は、私を慕う者たちのために、明日戦わなければならないのだ。」
彼らしい、返事であった。
虞美人は、はあと小さく息をした後で、彼の肩を、ぽんと叩いた。
虞美人は、項王に言った。
「― 明日がどうなろうと、もう一度私のもとに、帰って来ておくれよ。」
彼女は、麗しいほどに明るく、微笑んだ。彼女の微笑は、男にとって花よりも黄金よりも、輝いていた。
灯されてくっきりと映える彼女の微笑を見て、項王は、大きくうなずいた。
「― ああ。」
この夜が明ければ、決戦であった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章