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二十四 項王敗る(1)

(カテゴリ:垓下の章

寒い冬の一日が、始まろうとしていた。

朝まだきに、垓下城の前面で、二組の大軍が対峙する形となった。
楚軍は、城から出て、平原に兵卒たちを展開させた。
対する諸侯軍は、はるかに数で勝る兵馬を重厚に布陣して、待ち構える形を取った。
「― 予想の、通りだ。」
韓信は、遠くに敵軍の姿を眺めて、言った。
「もう、項王の軍には、糧食がない。決戦するより、彼の選ぶ道は、残されていない、、、これで、終わりだ。」
今日、韓信は、漢王からの信任を受けて、諸侯軍の総指揮を取る権を握っていた。
諸侯軍の最前面には、自らの斉軍を置いた。
彼は自軍を左右中央の三軍に分けて、中央の軍は韓信が、すすんで自ら率いた。
彼の視線の向こうからやがて突進して来る楚軍の先頭には、これまでの戦と同じく、項王が自ら率いて来ることであろう。
自分でなければ、項王を倒すことはできない。
韓信は、そう思った。奢りでもなく、兵法家の目をして、そのように断じた。
韓信は、全軍に向けて、命じた。
「この私に、従うがよい― 私は、必ず諸君を、勝利させるであろう!」
彼の言葉は、諸国の将兵たちに、しびれるように響き渡った。
このとき漢軍は、諸侯軍の最後方にあった。
漢王は、今日もまた夏候嬰の御する馬車に乗って、戦場にあった。
(戦わせて、おけ、、、今日だけは。)
彼は、心中でうそぶいた。
漢王は、韓信の作戦に従って、周勃らと共に後詰の陣を布く役割であった。
覇者ゆえに、後ろでずしりと構えていると、見なすべきであろうか。
否、本当のところは、漢王は韓信に任せるより他に、項王と戦うことなど、できるはずもなかった。
戦場の上にある空は、暗く曇っていた。
明けるべき時刻となったが、いまだに明るくならない。
布陣する諸侯軍を遠くに見据えた項王は、愛馬の騅にうちまたがって、空を眺めていた。
「― 春は、まだ来ないか。」
彼は、つぶやいた。
風は冷たく、陰の気が、最も深く大地に沈み込む季節であった。
あとしばらく辛抱すれば、また春が巡ってくるだろう。
しかし、春を待つ時間が、今の彼に残されているだろうか。
再び虞美人を腕に抱いて、騅をうららかな春の川の流れに沿って、駆けさせることができるだろうか。
虞美人は、彼の背後の垓下城に、置き残して来た。
今日、彼は勝って彼女のもとに、帰るのか。
それとも、、、?
「― 行くぞ!」
彼は、想念を断ち切って、騅の首を勢いよく叩いた。
騅は、主人に応じて、高らかにいなないた。
そして、名馬の誇りを見よと言わんばかりに、全速力で駆けていった。
「お――っ!」
彼の後を、楚軍が一丸となって、追い駆けた。
決戦が、始まった。
両軍の間合いは、たちまちのうちに縮んで行った。
項王は、彼の常の戦と同じく、先頭を駆けた。
「私は、勝つ!私の前に、敵などいない!いないのだ!」
彼は、水車のごとく前後左右に、戟を振るいに振るった。
彼の勇姿は、味方を奮起させ、敵を恐怖させる。
諸侯軍の中央に割り込んだ楚軍は、たちまちに敵を押しまくった。
「― 退け。」
韓信は、しばしの時を測った上で、命じた。
彼は、自分のいる中央軍の兵を、後ろに退かせた。
さすがに、これまで幾度となく見られた、猛虎の力であった。
正面からぶつかって、防げるものではない。
しかし、攻め込まれても、韓信は、浮き足立つことはなかった。
中央軍の後退は、まったく予定の通りであった。
彼は、楚軍の突進を受け止めるために、諸侯軍の陣を深く深く、何段にも構えていた。
楚軍は、勢い当るべからざるものがあったが、対する今日の諸侯軍は、押しても退くばかりで、いつまでも奥が尽きないかの、ようであった。
韓信の指揮は、諸侯を流れるように動かして、押されているにも関わらず、少しも恐慌に向かわせなかった。
これも国士無双への信頼が、為さしめることであった。
彼の勢威は、今日の戦において、諸将と兵卒の恐怖を、打ち消すことができた。
諸将が項王を前に正気を保てば、兵卒たちもついに楚軍を前にして、乱れなかった。今日の戦場で、韓信は、項王の恐怖をとうとう翳らせてしまった。
攻め込んだ楚軍は、今日の戦が、これまで彼らが戦った戦とは、微妙に違うことを感じた。
項王は、いつもと同じように、勇戦していた。
自分たちも、項王と共に、力の限り戦っていた。ここまでは、何も変わることがない。
しかし、退いて下がる敵の兵卒たちの様子が、何かこれまでとは、違った。
もうずいぶんと長く戦い続けているのに、いまだに敵は崩れない。
今日の戦は、何かがおかしい。
今日の戦は、何かが―
楚兵たちがそのように感じていた、頃。
韓信は、自軍の左右に、指令を出した。
「費将軍に、孔将軍。左右から、敵を砕け。」
逆襲が、始まった。
韓信の指令に応じて、左軍の孔将軍と右軍の費将軍が、楚軍を挟み込んだ。
両軍は、楚軍に向けて、横なぐりに攻撃を加えた。
この頃すでに、楚軍は伸び切って、小さく分かれてしまっていた。
そこに満を持して大軍を打ち付けられて、小さな単位ごとに、飲み込まれて、崩れて行った。
形勢は、一変した。
楚軍は、軍としての形を、失い始めた。
項王が、情勢の急変に気がついた時には、もう遅かった。
韓信は、諸侯軍に総攻撃を命じた。
無敵であったはずの楚軍は、今や諸侯軍の大波にさらわれていった。
楚の兵卒たちは、各所で次々に討たれて、壊滅していった。
「兵の形は、水のようなものだ―」
韓信は、言った。
「激流は受け止めず、これを下流に下らせるべし。やがて流れは分かれて伸び広がり、激流もいつしか細き流れと、なるであろう。水を治めるのは、そのときだ。」
だが、もし彼が指揮していなければ、今日の楚軍の激流を治めることなど、できなかったであろう。
韓信は、ついに項王を挫くことに、成功した。
彼の眼下で、勝利は確実なものとなっていった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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